終戦から80 年に合わせ、戦争の記憶を語り継ぐ取り組みや当時を生きた人の思いをシリーズで紹介する企画。2回目は秋田県内の98歳の男性に思いを聞きます。男性は旧日本軍による特別攻撃「特攻」で仲間を失いました。さまざまな思いを抱えながら年を重ねています。
映画・日本敗れたれど(1948年)の一場面:
「練習機まで駆り集めての総攻撃。いわゆる菊水作戦(特攻)を展開しましたが、時すでに遅し。あたら若い生命は爆弾を抱いての片道飛行。これを無意味に繰り返したのであります」
太平洋戦争末期の1944年10月、日本海軍はフィリピンでの海戦で初めて敵の艦隊に飛行機で体当たりする特別攻撃「特攻」を実施しました。「特攻」はその後、陸軍にも拡大し、終戦当日まで続けられました。特攻作戦での戦死者は6371人に上ります。
このうち秋田県出身者は56人。秋田市の総社神社の一角には特攻での戦死者を弔う慰霊碑があります。
藤本光男さん(98)は当時、海軍に特攻要員として召集されました。能代市出身の藤本さんは1943年に海軍航空隊に入隊しました。同期入隊した県出身の6人を特攻で亡くしています。
藤本光男さん:
「みんな同期生は『戦争が好きだ』という人はいないが、精神的なところは一致していた。飛行機に憧れてくる。戦争に俺も参加したいという極めて単純な気持ちで入ってきていた」
“軍人”といっても多くが10~20代。日常は少年らしい姿が見え隠れします。藤本さんには特に親しい同期がいました。
藤本光男さん:
「山本英司、(秋田県仙北市の)角館小学校だ。予科練のときに仲が良かった。一緒に風呂に入ったりしていた。地元の角館の自慢をしていた。『桜は秋田県では角館の桜が一番だな』と言っていた」
ところが、山本さんは沖縄で零戦機に乗って敵の戦艦に体当たりし、亡くなりました。18歳でした。藤本さんは同期の死の知らせを聞いたとき、不思議と驚きはなかったといいます。
藤本光男さん:
「われわれだって、こっちの隊に行けば遠くに行くかもしれないし。父親母親、じいさんばあさん、兄弟のことは脳裏をかすめたけれども、特別に『じゃあ改めて、行ってきます』とか、そういう観念は無かった。普通だった。出撃の命令が来れば『じゃあ行ってきます』と。どうしてああいう心境だったのか今は不思議。それが今の高校3年生。にこにこって笑って、飛行機に爆弾を抱いて乗って飛び立っていって、あと帰ってこないんだから」
藤本さんは1993年から毎年行われている特攻隊の招魂祭で一度も欠かさずに追悼の言葉を送っています。
藤本さんに、日本が戦争をせずに戦後80年が来たことをどう評価するか聞くと、「戦死した仲間に日本の現状を伝えると言ったら、とにかく良い国になった。あの戦争のおかげだと伝えたい」と話していました。
08月14日(木)20:00