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	<title>南極ブログ通信</title>
	<link>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/</link>
	<language>ja</language>
	<description>５１次隊には、越冬隊長を務める三種町出身の工藤栄博士をはじめ、秋田大学の二部恒美氏、大館市のトービス工業から石田昌氏の３人の秋田県出身者が参加。２０１１年３月までの長期にわたり 観測・研究活動に従事することになっています。南極ブログ通信は、この３人の秋田県出身者による&quot;生&quot;の情報を皆様にいち早くお届けいたします。工藤栄 氏（越冬隊長）二部恒美 氏（設営庶務担当）秋田大学医学部石田昌 氏（設営機械担当）トービス工業</description>
	<copyright>Copyright 2010</copyright>
	<pubDate>Sun, 25 Jul 2010 13:45:35 GMT</pubDate>
	<lastBuildDate>Sat, 31 Jul 2010 12:29:12 GMT</lastBuildDate>
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		<title>南極の湖の物語　その２６</title>
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		<guid>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/054</guid>
		<category>日記</category>
		<pubDate>Sun, 25 Jul 2010 11:56:27 GMT</pubDate>
		<author>工藤栄</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
<p class="ni">「ラングホブデ北」</p>
<p class="ni">　基地から南のルート、先週の休日に｢難所」と思われたプレッシャーリッジまでを確認していたので、残すところ10km足らずで長頭山の麓に広がる陸地へ上陸することができる。この部分を週半ばの天候のよい時をねらって｢ルート工作」を行った。天気予報では週末に大きなブリザードになるといういうから水曜日1日限定での実施だった。予報通り、次の日の未明から崩れだして金曜日は外出もできぬほどの荒れ模様となった。まだまだ明るい時間が少ない季節、出かけるタイミングを見つけ出して一気にできる部分を片付けてしまう作戦は、したがって的を得たものであったはず。ここまでのところ順調、かな？<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/footprint.jpg" class="search image"><img alt="footprint.jpg" title="footprint.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/footprint.jpg"></a></p>
<p class="ni">　太陽が顔を出して、いろんなものの影を地表に映し出すようになると、ちょっと面白い現象に気づくものだ。上の写真にあるように、雪面を踏み固めたせいなのであろう、風が周囲の雪を飛ばし去り、足跡が雪面から浮き上がるように残存している様子が影の輪郭を伴って強調されて見えたりする。南極の暴風はちょっとした地形の凹凸や降り積もった雪の強弱によって、いとも簡単に巨大な吹き溜まりやその逆に雪を削り取ったウインドスクープ、サスツルギを創り出すものだ。この足跡の彫刻は弱めの風が創り出した作品のひとつである。<br>
 太陽が昇り始めて一週間にもなると、太陽は地平から完全に姿を現し、それと同時に、それまで晴れていても朝焼け・夕焼けの茜色の空だったものが、徐々に澄み渡った青になり、そんな青空の時間帯も次第に長くなる。そんな青空の中に月が｢青く」輝いて見えた。「月がとっても青いから&#9835;」という歌があるように、月の光が青く見えることは日本でも経験できるのかもしれないけれど、それはもしかして月の「ウサギの餅つき」の姿に見える｢海」と呼ばれるクレーターなどの事を指し、白く輝く部分のことではないのかもしれない。いや、白く輝く月も凛と澄んだ大気のもとでの輝きは日本でも青い色合いとして認識できるのかもしれないけれど、ここ南極の-30℃の晴れた青空のもとでの白昼の月は、確かに青い。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/bluemoon.jpg" class="search image"><img alt="bluemoon.jpg" title="bluemoon.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/bluemoon.jpg"></a></p>
<p class="ni">　そんな青い月に見守られ、ルート工作チームは赤い山、ラングホブデという地名の由来、長頭山の麓を目指して南下を開始。地図からの見積もりだと、先日訪れたプレッシャーリッジからさらに約10kmほど南下を果たせば「北岬」を超えて、上陸ポイントのひとつ｢水くぐり浦」へ到達できるはず。はたしてどんな氷の状態になっているのだろう。北岬から南側は、この前の夏には完全に海の氷が融けて消失し、この冬の寒さで新たに氷が張り始めた場所になっているはずなのだ。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/mapchoutou.jpg" class="search image"><img alt="mapchoutou.jpg" title="mapchoutou.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/mapchoutou.jpg"></a></p>
<p class="ni">　休日に走った雪上車のトレースをたどること1時間余り。お世辞にも走りやすいとは言い難いデコボコの多いルートは、最初は雪と乱氷、そして次第に雪がほとんどなくなり、海氷が露出した｢青氷」地帯となっている。そしてようやく前回の最終到達地点のリッジを超えたところに到着だ。ここからラングホブデの北岬の東沖を目指して南下ルートを延長していく。途中、砕氷船の割り進んだ航路を再び横断しなければならない個所にも遭遇。そうそう、夏に砕氷船「しらせ」はこの辺の海域の調査を最新鋭の機材を用いて調査、そのためかなり縦横に走り回っていたのだった、という認識を新たしたのだった。<br>
　長頭山という山体はかなり大きなものゆえ、およそ20km離れた昭和基地からもはっきりと見ることができる。真冬にもかかわらず、かなり急こう配のこの赤い岩肌の山には無風状態で雪でも降り積もらない限り、雪で覆われることがない。なにぶん大陸から吹き下ろす｢カタバ風｣が常時吹き下ろすせいなのであろう、雪が速やかに吹き飛ばされて岩肌にとどまらないようなのだ。山自体の高さは400mに満たない、それほど高くはないものだけれど、氷河や暴風雪で削られたその姿は、アルプスやヒマラヤの山の頂上のような雰囲気を持っているようにも思える。もっとも、そんなアルプス・ヒマラヤというところの山並みを写真でしか見たことのない著者の言うことだから、この辺は、両方を実際に見た人の意見をうかがって確かめるべきところとは思うのだけれど。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/choutou.jpg" class="search image"><img alt="choutou.jpg" title="choutou.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/choutou.jpg"></a></p>
<p class="ni">　この山体はおよそ１０万年前の最終氷期には完全に氷河で覆われていた、とされている。山の頂にも氷河が削った痕跡が残っているし、その山の形、クジラの背中のような丸みを帯びた形や、山の脇には大きな力で削り取られたU字谷の片側と思しき氷食、帽子のつばを跳ね上げたように、氷河が固い地層を削り残したような地形が刻み込まれているのだ。<br>
　ラングホブデ北から氷河が後退し、その後から現在に至るまで、この地域はおよそ４万年ほどは氷河でおおわれることはなかったと聞いたことがある。その間に、重くのしかかっていた氷の圧力から解放されたこのエリアの海岸部は隆起し、陸地が海を閉ざして作ったとされる｢塩湖」がいくつか出来上がった。北岬の東側のほど近いところに「ざくろ池」、そして｢小湊」という湾を挟んでさらに東側の現在のラングホブデ氷河近くには｢いちじく池」という名前の湖がそれにあたる。以前「湖の起源」でも概略を紹介し、写真を挙げておいたのでご興味とあらばそちらを振り返って見ていただければ幸いだ。<br>
　ざくろ池は最大水深が5mあるかないか、いちじく池に至っては1m未満の浅い池である。周辺には塩分が結晶化した物が岩肌を白く染め上げてしまうほど、これら池の水の塩分はとてつもなく高く、ほとんど飽和状態といっていいぐらいとなっているのだ。海水が湖に閉じ込められている長い間に蒸発が進み、｢煮詰まって」しまったといっていい「超塩湖(Hyper Saline lakes)」なのである。実に海水の6倍ほど濃い塩分(海水の塩分濃度を3.5％とすると20％を超えるぐらいの塩分なのだ！）を示す。このため、この湖はかなり凍りにくく、理屈の上では水温が-10℃以下になってはじめて凍ることになる(参考までに普通の淡水は0℃だし、海水ならおよそ-2℃で凍る）。ただし実際は夏の間に湖の表面に雪解け融け水(淡水)が流れ込んで、下の濃い塩分の水とあんまり混じらないように表面を覆う。そのため、この薄い塩分の表面が最初に凍り始めてくるから、もう少し高い温度で氷に覆われ始めるはずだ。残念なことにその凍り始めの実態は、ちょうど南極の冬の始まりで極夜期間の野外観測しにくい季節に当たるから、観測できてはいないのだけれど、頭の中で考えるにはそうなるはず。このぐらい濃い塩分濃度だからこそ、氷の下にある湖の冬の水温は極悪なほど低下するはずだ。普通に海や湖で観測に使う水温計の測定レンジは、まあ、低くても-10℃ぐらいのモノが流通しているのだけれど、こんな超しょっぱい湖の観測ではしばしば測定限界以下の温度を記録するだけで正確なところ、どこまで低いのか？わからずじまいとなることが多々あるのだ。<br>
　現在はこの湖には湖底を覆うように繁殖する藻やコケの群落はもとより、水の中で生活する植物プランクトンも、もちろん小さな動物たちも、目立ったものを見つけることができない。そこにはかつて海だったころ生活していた二枚貝の貝殻が、まるで貝塚かサンゴ礁の波打ち際のように、湖畔の浅瀬や砂浜にかなりの量で落っこちているのだ。確かに極低温で高塩分ならば｢漬物化」されて「冷凍庫」保管されているようなものだから、普通の生き物にとっては生きづらいだろうな、と思える。<br>
　だが、夏にこの池に流入する雪解け水のわずかな水路には｢緑藻」が繁殖していたりもするから、全くの無生物状態ではないはず。極低温で高塩分状態を好んで勢いよく大繁殖するような生き物が見つかったり、そいつがはびこったりした場合、漬物業界あるいは冷凍庫業界など食品関連保管産業にかなりの脅威となるはずで、この辺の新発見に関しては、あった場合にかなり慎重な対応が求められるはず、だな、きっと。いたとしてもかなり細々と、粛々と、かろうじてゆっくりと生きているように見えるような、死んではいないように見えるような、そんな生き物がいるかもしれないことは否定しない。だが、ごく普通にたくさん元気に生活していたら、いろんな意味で大発見ではあろうけれど、厄介なことになるかも知らん。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/hisa.jpg" class="search image"><img alt="hisa.jpg" title="hisa.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/hisa.jpg"></a></p>
<p class="ni">　そんな塩湖への思いを抱きながら、新たに南へ10kmほどルートを延長し、今回の目標到達地点「水くぐり浦」へとたどり着いた。この周辺は先にも書いたが、この夏に完全に海の氷が融けていた場所なのである。このエリアの海氷がほぼ毎年消失する理由は、長頭山やその山麓から冬でも飛砂が多量に海の氷の上に舞い落ち、それが夏に一日中沈まない太陽からの光エネルギーを吸収しやすい「消雪・消氷剤」のように働くからなのだ。新たに出来上がった海の氷はとても静かに凍ってくれたのだろう、真っ平らに海を覆い、すでに1mをはるかに超えて厚くなっていた。その上には飛砂が茶色く降り積もっていたから、今度もまた、夏を迎える頃にはいち早く海の氷が融けだすだろうな、と思えた。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/mizukuguri.jpg" class="search image"><img alt="mizukuguri.jpg" title="mizukuguri.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/mizukuguri.jpg"></a></p>
<p class="ni">　水くぐり浦はちょうど基地から500mおきに立ててきた旗の数で40本、つまり20km南下したところにある。この地名は日本の南極観測隊がこの地で初めて潜水観測を実施した場所にちなんで名付けられたものなのだ。今から40年以上も前の話である。当時は水の浸入しないドライスーツではなく、水が入り込んでしまうウエットスーツを2枚重ね着して、夏の南極の海へ潜ったらしい。おそらくその時の夏もこのエリアは氷が融けて海が顔をのぞかせていたのかもしれない。昭和基地の周辺で氷に穴を穿つことなく潜水観測ができた故、この地が最初の潜水観測の場所となったのではなかろうか？そんなふうに思えてくる。そして、南極の陸地の荒涼とした生き物の気配がとても少ない光景とは裏腹に、海の中にはたくさんの海洋生物の姿があることを目の当たりにし、ペンギンや渡り鳥たちが、そんな豊かな海洋生物を頼りに子育てに毎年この地へ通い続けている理由を実感したはずなのだ。<br>
　残念ながら、今回のルート工作ではここで日没を迎えてしまった故、上陸せずに大陸際を後にして基地へと戻ったのである。</p>

</div>

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	<item>
		<title>南極の湖の物語　その２５</title>
		<link>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/053#tm1279821756</link>
		<guid>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/053</guid>
		<category>日記</category>
		<pubDate>Mon, 19 Jul 2010 20:38:23 GMT</pubDate>
		<author>工藤栄</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
<p class="ni">「大陸めざして」</p>
<p class="ni">　太陽が顔を出したとたん、いてもたってもいられなくなり、「次週への貯金」とばかり、休日の土日に大陸までの南北の海の上のルートの点検に連続して出かけてきた。昭和基地は東オングル島にあり、大陸との間にはオングル海峡というその幅およそ4kmの海がある。もちろん現在はすっかり凍っており、この上の安全に走行できそうな場所を確かめて「雪上車走行ルート」とし、南極大陸での調査旅行に利用しているのである。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/Ongulstnorth1.jpg" class="search image"><img alt="Ongulstnorth1.jpg" title="Ongulstnorth1.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/Ongulstnorth1.jpg"></a></p>
<p class="ni">　北の大陸へ昇るルートは二か月前に重い雪上車でも走行できる安全を確認したもの。なのではあるが、この極夜の間未使用だった故、雪上車の踏み痕（トレース）が消えたり、およそ500mおきに立てた旗が千切れたりしたものを直したりしなければならないのだ。海峡を横断するようにあったクラック、大陸への登り口の状況に変化が如何ほどなのか、状況確認を事前にしておくのが、まあ、心構えというものだろう。こうしておくと、いざ、仕事にかかろうぜ！という時に速やかに、なおかつ安全に取り掛かれる。休日の午前11時のブランチを食べてから、明るい時間帯に海の氷の上の旗を探しながら雪上車を進め、要所で氷の厚さを確認し、大陸までの17kmほどを走破し二時間近くを要して上陸を果たすことができた。<br>
　2か月前に踏み固めたはずのトレースは、もはやほとんど残っておらず、明るくなったとはいえ夕暮れ時の明るさだから、時折、次の目標物の旗を探しあぐねたりで、少々手こずってしまった。雪が平らで走りやすかった記憶のある場所も残念ながら雪の吹き溜まりが妙な具合に生じてしまい、お世辞にも走りやすいとは言い難くなってしまったところもあった。<br>
　大陸の登り口には潮の満ち干のせいで海の氷が割れているクラックが必ず生じるもの、このブログでも何度か紹介したことのひとつ。このたびはそんな割れ目の存在を知らせるように、そこには大きなアザラシが2頭横たわり、我々の行動を不思議そうに眺めていた。そのうちの一頭はどうやらついさっき子供を出産したらしいのだが、これはこれまでの私のつたない経験と記憶からみて「時期尚早」すぎると思えた。普通ならこの昭和周辺のアザラシの出産シーズンは10月過ぎであったはず。太陽が昇ったとはいえ、これから最も寒い季節を迎えるのだ。いくらなんでもせっかち過ぎじゃないだろうか？。そばへ確認に行ってみた隊員の話では、どうやら「死産」だったらしく、生まれい出た子供はただ氷の上に横たわったモノになっていたと、撮影した写真を見せながら説明してくれたのだった。合掌。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/tottuki.jpg" class="search image"><img alt="tottuki.jpg" title="tottuki.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/tottuki.jpg"></a></p>
<p class="ni">　大陸への登り口、「とっつき岬」には極夜のまえに標高600mの場所から整備のために降ろして駐車させておいた大型雪上車が横一列に大陸の氷の斜面を見据えるように整然と整列していた。今月の天候のいい時をねらって、これらの雪上車は基地へと運び込んで、この春の内陸旅行へ使用すべく整備を行う予定なのだ。大陸の登り口のモレーンの上のここは、大陸斜面を吹き下ろす冷たい風が始終あるのが定番なのだが、このたびは完璧に無風。こんな穏やかなとっつき岬の状況に遭遇したことは夏をのぞき一度もなかった。珍しい幸運に恵まれたと、ワタクシ同様に今回で越冬3度目となる隊員と語らったのだった。復路はもはや夕闇せまる時間帯になってしまったのだが、一度走った雪上車の踏み痕はヘッドライトに照らされることで、かえって日中よりも目立ち、雪面のデコボコさえも容易に察知しやすいものだ。白の雪原や氷原のなかに浮かぶ基地へと延びつながる道は、何ものにも代えがたい安心感を与えてくれる。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/sunset.jpg" class="search image"><img alt="sunset.jpg" title="sunset.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/sunset.jpg"></a></p>
<p class="ni">　翌日は南へ向かうルートの調査へと出かけた。南側のルートはまだ大陸までは至っていない。その途中、ちょうど大陸と基地との間の中間部分に生じていた「プレッシャーリッジ」の手前まで作ったところで極夜となって中断していたのである。プレッシャーリッジとは海の氷が何ものかに押されてその圧力に耐えかねて屏風のように氷が盛り上がった場所のことである。探検記などが好きな人は「エンデュランス号」という船が海氷に閉じ込められて最後にはこの氷の圧力によって木端微塵、哀れ沈没してしまった南極探検初期に実際にあった物語でご存じかもしれない。氷が押しつけられ破断した場所ゆえ、海氷が構造的にもろくなっているはず。だから慎重にルートを設定しなければ安全な雪上車走行ができない。このルートの極夜前の調査には自分は参加できていなかったので、どの程度のリッジなのかは伝え聞いただけなのだ。話によると何でもいたるところ海峡を横断するように2mほどの盛り上がりになっているとのことだから用心してかからなければなるまい、と気合で臨んだ。<br>
　昨日とは真逆に、基地から大陸との海峡に出てから南へと進路をとった。途端に、おそらくは夏に「砕氷船しらせ」が砕き作った航跡が再度凍結した氷の乱れ（乱氷帯）とオングル島の影響でデコボコに吹きだまった雪の多い場所に出くわした。雪上車は時折そんな1mほどの段差を乗り越えて進まなければならない状況だ。走りにくいことこの上ないのだが、幸いにも本日は昨日以上に晴れ渡って風もない絶好の天気である。真南に位置する大陸の赤い岩肌の山、長頭山を目印に南下を開始した。進行方向右手には連なるオングル諸島の島々と氷山群がガイドしてくれるように並んでいる。日の光が創り出す、氷山のシルエット、青い影。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/berg.jpg" class="search image"><img alt="berg.jpg" title="berg.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/berg.jpg"></a></p>
<p class="ni">　ただ白いはずの氷山は太陽の光でさまざまの色合いに染めあげられている。南の大陸にある小高い長頭山、その手前には海峡を横断して行く手をさえぎるように氷の屏風が聳え立っているように見える。<br>
「10kmほど南に下ったところに存在していたというプレッシャーリッジが、もし、この見えたままだとすると、かなり手ごわいぞ」<br>
ともかく、仲間とともにまずは一路南下して、極夜前に安全走行できたこのリッジまでたどり着こうと雪上車を走らせたのだが…目標に近づいているはずなのに、肝心の屏風のようなプレッシャーリッジが、なんだか遠くへ逃げてしまうように、南下しても、そして10km地点に到達しても、まったく近づいてきてくれないのである。<br>
「ははーん、アイツのせいか」<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/mirage.jpg" class="search image"><img alt="mirage.jpg" title="mirage.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/mirage.jpg"></a></p>
<p class="ni">我々がリッジと思って近づこうとしていた屏風のような氷の盛り上がりは実は蜃気楼のなせる技だったのだ。地図とコンパス、そしてGPSを駆使してプレッシャーリッジのあった場所を確かめて、そこまでたどり着いてみると、確かに氷が割れて盛り上がりを見せた場所が存在してはいた。だが、それはこれまでに通過した雪の吹き溜まりの段差とそれほど異ならないぐらいの規模のデコボコで、周辺もしっかりと凍結してくれていた。むろん雪上車も問題なく走行できたのである。これはこれで、この先の大陸上へアクセスするルートの設定にとっては好都合なのだ。極夜前の仲間の報告に脅されていた頭は、蜃気楼を実体と認識しちまったのだ。ちょっと苦笑い。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/silet.jpg" class="search image"><img alt="silet.jpg" title="silet.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/silet.jpg"></a></p>
<p class="ni">　南の大陸まであと1日もあれば到達することができるであろう。そこには湖たちが湖面を凍らせてひっそりと我々の到着を待っているに違いない。さあ、もう少しで野外観測の始まり、かな？おそらく8月にもなると日中の行動時間が現在の倍ぐらいになるだろうから、その時の調査実現を目指し、まずは、もう一日のチャンスをつかんで、ルートを作っていかなければなるまい、今月の内に。</p>

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	<item>
		<title>長い夜明け（南極の湖の物語　番外編）</title>
		<link>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/052#tm1279649470</link>
		<guid>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/052</guid>
		<category>日記</category>
		<pubDate>Sat, 17 Jul 2010 18:06:07 GMT</pubDate>
		<author>工藤栄</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
<p class="ni">　とうとう太陽が戻ってきた。というか、ぐずぐず地平線間際で出ようか出まいか、迷いに迷った揚句、恥ずかしげに顔を出してくれたというべきなのだろう。まだ、全身をあらわにすることはなけれど、蜃気楼を伴って煌々と輝いて、久々にいろんなものの「影」を地表に映し出したのである。太陽は地平線沿いに「ズズズズズ」と横移動して30分ほどで沈んだのだけれど、太陽の光の力強さに感激のあまり、隣にいた最年少の隊員に<br>
「影踏み、しようか？」<br>
と誘ってみた。が、もちろん、<br>
「隊長、なにいってんですか？」<br>
とばかり、落ち着いておだやかに却下されてしまったのであった。ウムム、ハズちまったか、残念。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/hatsuhi.jpg" class="search image"><img alt="hatsuhi.jpg" title="hatsuhi.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/hatsuhi.jpg"></a></p>
<br>
<p class="ni">　ともあれ、私は今回で三度目の「極夜明け」を体験したわけだ。極夜といえば、東北は日本海側の冬になろうという季節以上に陰鬱で、未曾有の天候の悪さを何とか基地にこもって太陽の季節を待つというのが南極越冬の通過儀礼のようなもの、ではある。だが、このたびの極夜期は心底明るい印象で終止してくれた気がするのだ。自分自身、それぞれの越冬で経験を重ね、極夜というモノについてある程度正確なイメージを持っていたから、冷静に周囲を見ながらやり過ごすことができたから、そう思えたのかもしれない。それ以上に今回、我が51次隊が直面した天候、あるいは51次隊メンバーが醸し出す物事に深刻になり過ぎない「能天気さ（いい意味で使用しています、誤解無いように！）」のおかげもかなりあるように思えもする。太陽が昇らない40日余りの期間、極夜期定番の猛烈なブリザードなどの悪天候にあまり見舞われなかったことはかなり大きい。周期的に来襲したブリザードはランクで言うともっとも小規模のC級（風の強さとその継続時間、視界の悪さでA、B、Cに分類しているのだ）、つまり「小ブリ」だけだった。そのほかは「晴れ」主体だったから（おかげでこの時期としては-30℃以下にしばしば見舞われるかなりの低温だった）、薄明時刻帯の地平線付近の明るさが雲にさえぎられることなく（地球外生命体の監視から免れ得なかったという被害・災難・デメリットを、私は受けた気もするのだが、まあ、それは仕方のない身から出た錆だ。しかし鯖が出てきたらヤヤコシイので注意が必要だ）、正午前後の3～4時間は「懐中電灯やヘッドランプをつけるまでもない明るさ」で、屋外でも十分行動できたのだ。初めて越冬する若者たちも、<br>
「極夜って、これでおしまいですか？大したことないですね！」<br>
と、強気の発言がでるほど。それほど、この時期にしては「過ごしやすい天候に恵まれた」年であった、と強く主張してもいい。こう書いていたら、ヤオロズノ神やそのほか日本に残した家族・友人・知人・愛人貴人奇人変人・生あるものすべて・有象無象・有形無形・森羅万象・魑魅魍魎・地球外生命体・宇宙そのほかすべてのワタクシドモのつつが無い生活を実現してくれた「ナニモノカ」に感謝せずにはいられない気持ちになった。自分のここまでの南極人生を振り返ると、南極の自然が回を重ねるごとに『徐々に南極の自然が心を開いてくれた』とも思えてくる。素直に、ここまでの精進が報われたと（はたして、私、何か精進に類すること、何かやったのだろうか、かなり疑問ではあるのだが…）、誤解したい（間違いなく誤解だろう）気にもなってくる（これは勝手な自己判断）。もしかしてこれは「地球環境変化」の流行にうまく乗って南極の自然が徐々に温和になってきているせいなのか？しかし、聞くところ、想像するところ、あるいは観測事実からすると、わが越冬の始まる前年・その前の年は、たぐい稀な暴風積雪の猛威に襲われていたという昭和基地なのだから、これは、地球環境変化というような大げさなものではなく（もちろんその流れの一端が実際にあるのかもしれないけれども）、単にたまたま偶然そういう廻りあわせだったという『運』だろうと思うのだ。だから余計に、「ナニモノカ」に感謝。偶然に生じることは地道な努力で築き上げたモノを一瞬にして吹き飛ばすエネルギーをしばしば持っているものだから、ね。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/syowakichi.jpg" class="search image"><img alt="syowakichi.jpg" title="syowakichi.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/syowakichi.jpg"></a></p>
<p class="ni">　下の写真は南極大陸上に何やら雲のようなもやもやしたものが立ち上っている光景。大陸上から吹き下ろす風が雪を巻き上げて海へと降りてくるときに海峡に居座っている重い空気にぶつかって上空に舞い上がったもの。ハイドロリック・ジャンプと呼ばれている。こうした現象は冷え込んだ晴天の日にしばしばおこることで、普通の天気予報では発生時刻や規模などを予測しにくいもののひとつなのだ。こんな現象が生じると、その後、無風状態だった海峡に、突如たたきつけるような暴風が来襲することも（しないことも）、ままあるから用心が必要なのだ。だから外で作業しているときはこうした変化を敏感に感じ取らなきゃいけません。こうしたことは南極で一年も過ごすうちに「自然と身に着くこと」ではあるのだけれど…。<br>
　自然の猛威と対峙するなんて大げさなことを考えてみると、最初の越冬で死にそうなつらい目にあったおいた方がいいのか、それとも、終始、「大したことないね！」と言い切れるぐらいで、過ぎ去ってしまい、何度越冬しても「伝説の過酷さに遭遇することなし」に、難なく南極越冬が過ぎ去ってくれたほうがよいのか、正直、自分にはわからないのだ。先にも書いたが、自然の猛威はいとも簡単に人間などの命を奪い去ってしまうものだ。そんな猛威来襲の気配を経験を通じて知ることの意味は大きいし、その次に猛威に直面するときの備えとしては以前の過酷な経験はかなり貴重なモノとなろう。だがしかし、生まれてから死ぬまでに一度もそんな猛威にさらされえることなく過ぎ去る人生もまた、数多く「ある」はずなのだ。もしかしてその方が平均的な人生かもしれない。だって、南極にスタンダードにあるような自然の猛威というものに遭遇するってことを例にとると、ここへ実際に来る機会や強制収容みたいなチャンスに出会わずに、大方の人は人生をおくっているのだろうからね。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/jump.jpg" class="search image"><img alt="jump.jpg" title="jump.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/jump.jpg"></a></p>
<p class="ni">　私とかつて一緒に越冬した若者の中に、「運気の強さ」に支えられ人生をおくっていると、自らも豪語するほどの隊員がいた。実際に彼の南極で越冬している間の行動を振り返ると、普通ならば、何度か死んでもおかしくないような状況に自分の至らなさ加減で自分を陥れながらも、おそらくは本人はそんな、幾度も死と隣合わせだったことをほとんど意識もしないで（さすがに一回ぐらいは意識したかもしれないけど）、もちろん、死なないで南極で越冬観測を成就、帰国後、異様な速やかさ加減で、表向きしっかりした職に就き、ごく普通の苦難に満ち溢れた人生を歩み始めたが、本人はその苦難の本質に気づくことなく暮らしている、かつて青年だった、奴も事実、存在する（ものすごく句点を使っちまったが、そういう奴なんだ）。いまだ、幸運の女神に見放されていないみたいで、きわめて元気に生きている。ここまで来ると、彼はこのまま運気に乗って人生の終わりまで乗り切ってしまう気がする。そんなうらやましい強運の持ち主も地球上の７０億人ぐらいいる人の中には、一人や二人、いるみたいなのだ。逆に「不幸の伝道師」という仲間もいたなあ…。運不運というモノは、本当に我がままで気まぐれというのが本質で、不公平にある特定個人にまとわりついてしまうモノでもあるのかもしらん。</p>
<p class="ni">　確実に不運を避け、幸運や女神に恵まれる方法があるなら、その恩恵にあずかってみたい気もする。いや、控え目に「努力が報われる」確実な方法があるなら、それにのっかって、努力したことに応じてタダシク報われる人生を歩むのが、まっとうな計画的人生処世術なのかも、と、思ってみたり…。だが、運をつかむ確実な方法はもとより、努力が着実に報われるようなことというのですら、実存するのかなあ？はなはだ疑問。運をつかむ確実な方法というのはなんだかアヤシイ雑誌広告のコピーのようでもあるし、「運」と「確実」を結合すること自身に自己矛盾を含んでやしないか？確実ならばそれはもはや運ではないはず。後者のコトガラにしてみてもかなり疑念がある。確実に自分のためになって報われるはずの努力、たとえばダイエットや禁煙ということが、なぜうまくいかないのだろうか？現状より自分自身を確実に良い方向へ導き、それゆえの未来の報酬が約束されていることなのにも関わらず、挫折したり、なかなか成功しないばかりか、リバウンドで逆効果のかえって悪い方向にまでしばしば進んじまうのは、こういう考え方の根本に誤りがあることを物語っている気もするのだ。どんなもんでしょう？<br>
　なんだか「ヒトは確実にいいことが生じる方法があるとしても、必ずしもみな、そんな人生を選択して歩むものではない」という法則が見えてくる。着実で確実なことよりも、「ラッキー、ツイテルゥ！」と、どちらかというと地道な努力の成果より、ギャンブル・運・偶然の結果にアドレナリン噴出、ワクワクして強い喜びを感じる、そんな、確実な報酬よりも不確実なことから与えられる喜びをより尊重するような「本質」がどこかにあるのではないだろうか？とも思えてくるのだ。この意味で安住の地からあえて離脱してしまう南極の湖底のモノたちをはじめとした地球上の生き物に共通した「何か」が、きっとこの根底に潜んでいる気がするのだが？どんなもんだろうか？<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/tsuk.jpg" class="search image"><img alt="tsuk.jpg" title="tsuk.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/tsuk.jpg"></a></p>
<p class="ni">　私が追い求めているのは「人生の面白さ」だとすれば（注：面白いかどうかは、こりゃまた、まったくもって自身のモンダイであるなあ）、着実さと偶然の支配する境界を行ったり来たりしながら、時に努力が報われないことを恨み、また、人の幸運をねたみ、ごくたまに反省して努力の不足を悟り、運ではない未来をつかもうとしながら努力するが、うまくはいかず落ち込んで、それでも偶然の好機に出会うと、なんだか未来が見えた気になって調子づき、溌剌と何かしだす、と、こんなような「何か、そのたびごとにいろんなコトガラに翻弄されながら生きるのが、「自分らしい面白さを追求する生き方」のように思えるのですな。ま、おおかた単に「流れ」に翻弄されてしまうのだろうけど、「自分がどういう状況になっても『何とかなるさ』とおおらかにそしてわけもない自信持って」その時々をやり過ごしていく能力をヒソカに持ちたいな、と思うのですよ。<br>
　あ、上の写真は極夜明け記念に、この越冬期間で最後になる「生のキャベツ」を食卓に供すべくお手伝いしている麗しい隊員の姿なのでした。今年の越冬では生のキャベツが7月中旬まで、実に9カ月近くも食卓に登場してくれたのだ。生のキャベツはオーストラリアで仕入れて持ち込む観測隊なのだが、その年の品質によって、いくら丁寧に保管・手入れ（腐ってしまう葉を定期的に除去しながら保管し続けているのだ）しても、今回の半分ぐらいの期間しか使用できない（それでも収穫してから5カ月近くにもなるんだけど）ことも、ままある。私が子供時代には冬の間に雪の下に「活けて」キャベツなどを冷蔵保管して使っていた記憶があって、こうすることでおそらくは4、5カ月の間、普通なら野菜を育てることのできない雪国の冬の食卓に利用していた。一年に一度しか物流のない南極ではそれ以上に、現在の日本では考えも及ばないほど深刻に（今の日本なら深刻にならなくとも流通とハウス栽培などの技術で生野菜が普通に苦も無く入手できる、けど、こういうことってここ50年に満たないような最近実現できたばっかりのことなんだよね）、生モノ「超長期保存」に「運と努力」をミックスさせて取り組んでいるのだ。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/people.jpg" class="search image"><img alt="people.jpg" title="people.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/people.jpg"></a></p>
<p class="ni">　日本では考え及びにくいコトガラ関連で、ふと思いついたことがある。日本で暮らしているだけだと南極で暮らしているときの「夜明け・（日没）・日暮れ」時間のスローな時間感覚をどの程度理解してもらえるだろうか？ということだ。おそらくは地球上の高緯度、日本ならば北海道はオホーツク沿岸で暮らす人、ことに漁師さんならば、夏になると午前三時前ぐらいから夜明けの雰囲気を味わいながら出漁し、午前5時ごろに日の出を迎える状況であろうから、<br>
「いったいいつになったら日が登るんだぁ？ま、いいッショ、日の出までが勝負デショ！」<br>
と、世の中がなんとはなしに明るい雰囲気に包まれる日の出前の時間を味わいながら生活しているのだから理解しやすいと思う（参考までに午前二時過ぎには漁師町のコンビニエンスストアーの弁当は売り切れてしまうので、オキャクサンは注意が必要である）。いわゆる「朝飯前」の時間はかなり十分にあるもので、そこで「ひと仕事」を十分にこなせるものナノダ、という認識は持てるはず。別にオホーツクまで話を持っていくまでもない気もする。秋田の農業に携わる人々も真夏の太陽がギラついて暑くなる日の出前の時間を使って朝飯前に仕事をしているではないか。秋田の実家の我が父親は「ニワトリ」と競争しているかのごとくの早起きで、夜の闇の暗さが少しでも白んだ時にはすでに起きだして勤勉に動き出すのであるから（夏ならば4時ごろには起きている気がする）、まあ、このたぐいの環境で育った人、少なくとも我が父親は夜明けの時間帯あるいは日没後の残光の明るさとその時間の長さを理解できることだろうと思う（もしかして父はあまり人の活動していない時に何事かワルさをしていた（る）のかもしれないノダガ…それは高卒で実家から上京した息子には知る由もない…）。ここ、南極は高緯度にある故、より太陽が地平線間際でジリジリ顔を出しそうで出さない、あるいは、出したら出したで、沈みそうで沈まずに、東から西へ「転がるように」移動するっていうのが「定番」なのだ。こんな薄明の時間帯がオホーツクや秋田以上に長いのだ。だから「朝飯前」「日暮れ後」の時間に、実は一日の仕事の全部片付けられるぐらいにもなる。<br>
　これが低緯度、沖縄や赤道付近になると、太陽は途端に「江戸っ子」化して、<br>
「テヤンデイ！出るもんは、でる、引っ込むモンはさっさと消えやがれぃ、テナモンダ！」<br>
と、あっという間に「残光」時間帯が過ぎ去ってしまうことになる。こうしたところに育った人々は、したがって「カラスの鳴いている間に速やかに家へ帰る」ように指導された人生を歩むから、おのずと高緯度育ち、低緯度育ちの人々の間で、文化的齟齬が生じる気もするのだ。</p>
<p class="ni">ま、こんなことを夜明けの与太話として記述して、番外編を閉じるのでした。</p>

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]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>南極の湖の物語　その２４</title>
		<link>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/051#tm1279187770</link>
		<guid>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/051</guid>
		<category>日記</category>
		<pubDate>Mon, 12 Jul 2010 07:50:51 GMT</pubDate>
		<author>工藤栄</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
<p class="ni">「神出鬼没！小さきモノたち」</p>
<p class="ni">　7月11日現在、天気曇り、風やや強し、気温－20℃ほど、地吹雪で視界が時折悪化しながらも、ここ昭和基地では太陽が地平線から顔を出す日まで残すところあとわずか、秒読み態勢となった。皆様が住んでいる日本は、もうすぐ梅雨明けで夏本番を迎えるころなのだろうか？さて…<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/today.jpg" class="search image"><img alt="today.jpg" title="today.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/today.jpg"></a></p>
<p class="ni">上記のような時候の挨拶的な言葉を何の考えもなしに流れるままキーボード入力しながら、ふと<br>
「この文章、3つの文が組み合わさったものだなあ…。前半の天候概況と真ん中の極夜が明けて太陽が昇り始めること、っていうのは全く関係ないし（晴れていようが吹雪いていようが極夜はその時になったら終了するのだ）、さらに末尾に、それまでの時間が短いことを強調するためによく使う「秒読み」という言葉を登場させたのだが、秒読みしようと思えば、この先の白夜や来年の正月、はたまた地球や宇宙の終焉までだって、秒の単位で表すことが可能…。ちなみに極夜明けまでは3日、すなわち26万秒を切ったかな？というのが、本日の現地時間11時現在の状況なんだけど…いくら楽しみだからといって自分が声に出してカウントダウンするにはまだまだ数が大きすぎてシンドイから、やるはずがない。となれば「秒読み」というのは嘘。かもしれないけど、次の「態勢」という言葉がソフトに誤魔化している。こんな時候の挨拶は文章作法として、ハタシテ、タダシイのだろうか？」<br>
そんな妙な疑問にとらわれてしまった。<br>
　とりとめもないこと、どうでもいいことのようにも思えるだろう。が、なんだか最近、学生や弟子たちとのやり取りで、「お前さんには論理っていうモノがかけらも無いのか！」と厳しく指導しなければいけない状況が頻発し、そうしてきた手前、モノスゴク気になってしまったのだ。自分の文章の中の非論理性は「言外の意」を補って論理的な解釈も可能となるのかもしれない。もちろん非論理性を強調して分析、批判することは至極容易だ。他者の言外の意は往々にして伝わりにくいモノ。だから、そこに誤解が生じる隙ができる。誤解を生じさせる隙を作らないように論理的に事実を積み重ね、それを伝えるのが科学。その伝える方法が「言葉による記述」や「実験による検証」なのだから、それらには正確で論理的な構造が要求されるのだ。とは言え、すべてにおいてそんなことばかりを追求したら、極めてカタブツで面白味にかけるモノになりがちだ。自分の人生ならば面白い方がいいと思う、となれば、状況に応じて論理性と非論理性を自在に使い分け、「論理的な非論理」・「非論理的な理論」を論じるとか「不合理な真理」を見つけ語ることができる能力を身につけるべきだろう。どうすりゃ、いいのだ？わからん…破綻しちまうのがオチだろう。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/culroom.jpg" class="search image"><img alt="culroom.jpg" title="culroom.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/culroom.jpg"></a></p>
<p class="ni">　今回書きたいのは「時候のあいさつの論理的記述」あるいは「非論理的時候の挨拶法」とかでは一切ない、はずだった。サブタイトルを入力した段階までは『小さな生き物たちのしたたかさ』とか『無から突然発生するような神出鬼没ぶり』について紹介してみようと意識していたのであった。この辺で書きとめておかなければ、筆者がテーマを見失い、完璧に忘れ去る気配濃厚。これではいけません。<br>
　上の写真は昭和基地の野菜栽培室の様子。温度がおよそ30℃ぐらいに保たれた小部屋の明るい蛍光灯の元、目にまぶしい緑の葉物野菜たちが茂っているのがわかると思う。昭和基地での越冬生活で、これら新鮮な緑はとても貴重なのだ。なにせ、我々が来たときに持ち込んだ食材で1年間の食事のすべてをまかなうわけだから、どうしても冷凍や乾物が中心となってしまう。「生の野菜」で1年間使用できるものは、ジャガイモ・玉ねぎという強い味方もいるのだけれど、ほとんどの生の食材、殊に傷みやすい生の葉物・果物は、越冬半ばにして使えなくなってしまうのだ。したがって、写真のように「細々と」でも食卓の彩りを添える程度は自給しよう、ということで水耕栽培をしているのだ。その水耕栽培装置の培養液を循環させている下段の水槽の写真（下）に注目してほしい。水が緑の膜を張ったようになっているのがわかるだろう。この培養液の本来の色は無色透明で、植物の育成に必要な栄養（肥料）を溶かしただけのものなのだが。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/algaeG.jpg" class="search image"><img alt="algaeG.jpg" title="algaeG.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/algaeG.jpg"></a></p>
<p class="ni">　日本の夏の田んぼの水、あるいは汚染の進んだ湖に発生してしまった「アオコ」のように、無色透明の培養液を色づかせ、あまつさえその表面に膜状のものが発生させているのだ。水耕栽培液だから、もちろん植物の育成に必要な栄養をバランスよく含んでいることはたしかなのだが、それにしてもこの南極でこれほどまでに緑に染めてしまうモノは、いったい何なのであろう？時は日も登らない極夜、当然のことながら、基地の周りの湖がこのように緑色を呈する現象は全くない。この培養に使っている水は、基地の周りの雪を溶かし、それを生成して不要な塩分やゴミをろ過し、殺菌したものだし、栄養素は粉末の無機の化合物を混ぜ合わせたものである。だから培養装置を動かす初めにおいて、およそ生き物らしいものは入っていなかったはずなのだ、播種した種以外は…。そんな「無菌無生物状態の水」にもかかわらず、生き物、とりわけ植物が必要とするような無機の栄養をバランスよく混ぜ合わせた水があるだけで、どこからともなく生き物がそこを見つけ、そこに育って、わが世の春を謳歌する、ってわけだ、今の地球上の南極ぐらいの環境であるならば。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/micros1.jpg" class="search image"><img alt="micros1.jpg" title="micros1.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/micros1.jpg"></a></p>
<p class="ni">　この緑に色づいた水を一滴、顕微鏡で観察してみたのが上の写真。何やら丸っこいモノ、ラグビーボール状のモノ、糸状のモノ、そしてグネグネうごめく何ものかがひしめき合っているのである。丸っこいモノはクロレラのような単細胞の藻、ラグビーボール状のモノはやはり単細胞ではあるが泳ぎ動く鞭毛をもち、糸状のモノは仕切りのある細胞が連なった群体を作る藻で、いずれも緑藻の仲間。こいつらは自ら色のついたモノであるから、（私には）識別しやすいし、わかりやすい。水を緑に色づかせた主体はこれら緑の藻たちなのだ。これだけではない。このほかあんまり色ははっきりしないが、グネグネうごめくから目についてしまうモノもいる。ラグビーボール状の単細胞だが緑の色素をもっていないモノ、頭のように見える部分に水流を渦巻かせているちょっと大型の多細胞生物のワムシまで見つかるではないか。これらをさらに拡大してみたのが下の写真だ。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/micros2.jpg" class="search image"><img alt="micros2.jpg" title="micros2.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/micros2.jpg"></a></p>
<p class="ni">　光合成をする藻類、多細胞の動物であるワムシのほか、この写真では半透明の小さな点や破線のように見える、球菌や桿菌などの細菌も当然のように見つかるのだ。生き物の中の「生産者」「消費者」「分解者」の役を果たす3つのグループ、馴染みの言葉で言うと、植物・動物・細菌（菌）の仲間が、初めは何もなかったはずの栄養を含んだ水の中に、いつの間にか大発生してしまっていたのである。もちろん、この野菜栽培室は、一切のばい菌やら生き物を遮断するような装置が施されているわけではなく、南極、昭和基地の空気が自由に入り込み、ヒトが直接触れて世話しているのだから、こんなところから生き物が浸入するチャンスはあるのだけれど。ということは、これらの生き物は南極の空気の中に潜んでいたのだろうか？あるいは、ヒトや野菜の種、装置など、南極の外から持ち込んだものにくっついて昭和基地までたどり着いてしまって、じっと「この世の春」を待ち続け潜んでいたものが大発生したのだろうか？パスツールの実験以来、「栄養たっぷりの煮汁、ブイヨンを放置すると生き物が自然発生的に生じる」ことは完全否定されたはず（地球上の生命の起源は？というと…これまたちょっとヤヤコシイ説明になるなあ）、どこかからこれら生き物が浸入して繁殖したと考えるのが科学的な結論だろう。とはいえ、我々人間が南極で長期にわたって生活していると、風邪もひけなくなるほど風邪のウイルスにとっても過酷で生き延びづらい環境であることは間違いない。そんな過酷さがあっても、ある種の生き物は「生き延びて、繁殖のチャンスをうかがって条件が整えば直ちに増える」ということは驚きだ。それも、キチンとした植物・動物・細菌（菌）のメンバーからなる「生き物社会」までをごく短期間で築き上げてしまうのだから。<br>
　これまで見てきた南極の湖の中にいろんな構造物を作り上げたモノたちもまた、今回紹介したような小さな生き物たちであった。タフで身軽なモノたちは、おそらく地球上のあらゆる場所で生活空間を探索し、そこで増えようと機会をうかがっているに違いない。</p>
<p class="ni">　ほら、今、あなたの目の涙めがけて、一匹のワムシが頭部の繊毛を目まぐるしく動かせて…</p>

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	</item>
	<item>
		<title>南極の湖の物語　その２３</title>
		<link>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/050#tm1278261274</link>
		<guid>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/050</guid>
		<category>日記</category>
		<pubDate>Sun, 04 Jul 2010 10:38:35 GMT</pubDate>
		<author>工藤栄</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
<p class="ni">「極夜のむこう」</p>
<p class="ni">　うむむ、困ったことになった。このブログの反響は南極の湖の無音空間のごとし、と思ってノホホンとして暮らしていたら、我が内の隊員の中から<br>
「隊長のブログ、あのままでいいんですか？隊長の人格、知っている人なら（あきらめるから）いいかもしれませんけど、誤解されたり困ったことになりませんか？少なくとも我々が」<br>
というような指摘を、昭和基地のバーの営業日の開店前のすれ違いざまに、フテキな微笑みをたたえながら囁かれたのだった。<br>
　この状況を一般読者が理解するためには昭和基地のスタンダードな生活風景をちょっとだけ解説しなければなるまい。基地生活は「日本での生活習慣に近い日常をできる限り実現させ、極限隔離社会でのストレスを軽減させるような努力もしつつ、ただし24時間誰かしら勤務して基地観測も続けているのである（28人で生きていくすべてをまかなうんだから、普通の生活を支えるコト、それ自身、フツウの状況ではない気もするのだが…）。」したがって必要に応じて係・コミュニティーを創り出して「日常生活の楽しみまでを」自ら積極的に作り出しながら（ただしその経済効果や報酬は金銭的なものは一切なく、そこで生活している人の喜びだけという原始社会なのだ）暮らしているのだ。日本社会で平均的な大人の年齢である隊員たちにとって週3回、2時間だけ営業される「Bar(バー)」は（料金は請求されず、きわめて相互福祉的なホスト+αがいることもある）、憩いでありくつろぎの空間なのだ。そんな時として異次元空間にもなる時間帯に入ろうとした時のことの出来事。<br>
「最近ちょっと、哲学的なことをムズカシク書きすぎて、読者を（いるのだろうか？）置き去りにしそうになっちまったかなあ…」<br>
「そうじゃなくって（そんなことは一切書いていないでしょうに…まったく…）、もっとちゃんと隊長らしい、科学者らしいまともなことを書いてくれなきゃ、我々隊員が、底なし沼やETやら、ウシやタツジンやクモや埼京線の混雑に翻弄されちまっているタイチョウのもとで暮らしていることが家族に発覚すると…シクシク」<br>
「えっ（絶句）！」<br>
そうなのかもしれない。本人がいたってまじめに紳士的に南極の湖にかかわる「物語」を書き連ね、自らの心の赴くまま正直に、「自分の心の中に映し出されている世界」を紹介しようと思っている純真さから始めたブログの内容を、今、改めてみて読み返してみると、実に「変なヒト」が無知をさらけ出して偏屈に書き続けて来たのだという事実に気づいたのである。瞬時に深く反省してしまったのであった。隊員すべてとその支えてくれている家族に絶対的安心を与えてこそ、それが隊長の職務というモノではないか！それが私はできていたのかと…。<br>
　とは言え、この書き連ねた事柄のすべてからワタクシの人格を判断されて困る事態には、ここ南極にいる限り、なりようが無い（本人は）。むしろそう判断される人格の方が本人以上にシッカリした大人の完璧さを兼ね備えている気もする…。ううむ、どうしたらよいものか？「ご家族の皆さん、少なくとも隊長よりも隊員の諸子・諸兄・諸妹はしっかりした人格なので、わたくしがこうしたカタヨッタ南極の姿を、眼鏡越しに語ることが許されているわけでありまして…」弁解、弁解。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/skalvik.jpg" class="search image"><img alt="skalvik.jpg" title="skalvik.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/skalvik.jpg"></a></p>
<p class="ni">　さて（話題転換の接続詞）、そうではあるのだが、あと10日足らずで太陽が戻ってきてくれるのだ。越冬隊のメンバーにとっては、ここまでが準備期間（身も心も資材も環境も）で、これからが「真の南極観測」に動き回ることができる季節の到来なのだ！ここまで、もちろん基地での連綿としたデータを欠かすことなく連日取得している隊員、機会あるごとに厳しい厳冬下で野外での活動を繰り返しもしてきた隊員なのだが、太陽の再来とともにやってくる「躍動の季節」はオリンピックやワールドカップなどのスポーツ競技会と日常のトレーニング・アスレチッククラブ活動・町内会の運動会・地区予選ぐらいの違いがあるのだ。そんな季節にぜひ訪れてみたいのが上の写真の場所。昭和基地から実移動距離で100kmまではないだろうけれど、雪上車で1日がかりで海の上を走りたどり着く露岩地帯のひとつ「スカーレン」と「スカルビックハルゼン」という名前の場所。ここにはもちろん、わが調査対象の綺麗な湖があるし、地磁気の観測や地学調査の機器が設置されてもいる場所の一つでもある。キャンプ地の眼前には南極大陸の氷河が山を乗り越えて海へと落ちる「氷瀑（ひょうばく、氷の滝）」もあり南極らしさ満点の場所でもある。ただしここまで雪上車キャラバンを率いてたどり着くには、おそらくは「芋虫・尺取虫」のごとく海の氷の上を安全な「ルート」を探りながら進まなければならないので、一気にその場を目指したとしても1週間ほどを要する作業が必要。その途中にも観測ポイントが点在し、要所要所にアクセスルートや補助ルートを作っていくので、ルートができてしまえば一日で到達できる距離とはいえ、なかなかたどりつけないというのが実情なのだ。こんな「単に目的地へたどり着く」という地道な作業でさえ、荘厳で雄大な南極の風景（天候が良ければ）、過酷で困難を極める難所（天候が崩れ始めてしまえば）を体感しながらという「オプショナル・ツアー」がもれなくついてくる。このへんの様子はこの先実際の活動が開始した折に、詳しく語っていこうと思う。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/woman.jpg" class="search image"><img alt="woman.jpg" title="woman.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/woman.jpg"></a></p>
<p class="ni">　湖畔に立ち何やら腕組みをしながら足元の「ナニモノ」かについて考えている女性隊員。これは夏のスカーレンにある湖畔の風景なのだが、湖岸一帯に妙なものが大量に打ち上げられているのが見てわかるであろう。もう少し近づいてみたのが下の写真。茶色や緑の入り混じった丸みを帯びた浮遊物なのだ。色といい形といい「コロッケ」あるいはおでんの中の「さつま揚げ」や煮汁を吸いすぎた「はんぺん」、千切れて砕けたものは天麩羅鍋に残った「天かす」状のものといった様相のもの。南極の湖の女神たちが夏到来を祝して大宴会に興じたのか？<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/skalleno.jpg" class="search image"><img alt="skalleno.jpg" title="skalleno.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/skalleno.jpg"></a></p>
<p class="ni">　手に取りタッパウエアーの中に入れると食品らしさが余計に漂うのだけれど、これは、長いことこのブログで取り上げてきた｢湖底を覆って繁殖している小さな藻の集合体」が、湖底から離脱し、湖面へ浮かんできたものなのである。こんな現象は、湖によって規模の違いはあるものの、かなり普通に見出せることである。このスカーレンにある湖では、そんな浮遊した藻の塊がかなり大量に見つかり、かつ、コロッケのように丸みを帯びて外側が「綺麗に茶褐色」を呈しているのである。ここの湖ではないけれど、湖底を覆ったカーペット状の藻が、寝相が悪くって乱れ起き上がってしまったシーツのようにはがれあがっている様子や、突起を伴った湖底の藻(通称フトマル君）が板状に半畳分ほどのサイズではがれて浮遊しているものを見かけたこともある。湖底を(集団)生活の場としているのなら、そこにとどまっていればいいように思えるのだが、込み合い混雑に嫌気がさして｢緊急離脱（エマージェンシー・リフト・オフ）！」という合議が採択されたのだろうか？それとも湖底の「地上げ屋」が出現、恫喝されて泣く泣く住み慣れた安住の湖底を離れることになってしまっているのだろうか？<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/korokke.jpg" class="search image"><img alt="korokke.jpg" title="korokke.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/korokke.jpg"></a></p>
<p class="ni">　湖底から離れること→マイナスイメージのような書き方をしたのだが、こう書いたのは理由がある。湖面に浮いている塊の活動状況を、植物の光合成の大きさということで調べてみると、湖底にいる時よりもはるかに小さいのである。場合によっては「まったく光合成反応ナシ」ということもある。湖底よりも湖面の方が太陽の光をたくさん受け止められるからいっぱい光合成ができてもよさそうなのだが、そういうことが許されない状況のようなのだ。浮かび上がった塊が湖底にある時よりも茶色みを増しているところをみると、どうも湖面は光が強すぎると感じているようなのだ。隊員たちが夏の時期に光の防護を怠ったたら、かなり速やかに｢日焼け・紫外線焼け」を経験し、真っ赤にはれあがった顔の｢たこ焼き人間」→ボロボロ皮膚がズルズルむける｢ジャガイモ人間」→愛らしい口元が極度に強調される「たらこクチビル人間」を経てやがて1週間後には「国籍不明の疑似黒人化」という進化を遂げることからも、湖面には確実に生き物には強すぎる紫外線が降り注いでいる事実と実態を推察できるのだ。そんな危険な場所に彼らは積極的に移っていくものだろうか？そんな疑念からのマイナスイメージなのである。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/waterkorokke.jpg" class="search image"><img alt="waterkorokke.jpg" title="waterkorokke.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201007/waterkorokke.jpg"></a></p>
<p class="ni">　だがしかし、一方の湖底は大量の藻たちが表面を完璧に厚く覆いつくしてしまっているのだ。積み重なって下になってしまえば光の届かぬ世界ゆえ、藻たちは光合成をすることはできまい。湖底から立ち上がって3次元的に使えば生活空間が増えるのは理屈。こうして藻たちの集合構造物が機能しているのかもしれないのだが、それは偶然なのか必然なのかは不明。生活空間がいっぱいになってもなお増えようとする藻たちは立ち上がったついでに、なんかの拍子に？湖底から離脱してしまうこともあるのだろう。これには見方によれば｢新陳代謝」のように湖底のお肌を若く健康に保つ効果が期待できる。そのままでは活動できない湖底の生活空間に隙間ができるからね。離脱し浮遊する藻の塊は瞬時に全滅するわけでもなかろうから、湖面に浮きあがったあと、｢別のすみ場所」に沈み、あるいは流れ、あるいは飛んで逢着する可能性はゼロではなかろう。これは生き物が自らの生を保てる場所を、限りなくゼロに近い状況でもなお、探し求めながら生をつなぎ続けようとする本能のようなものかもしれない。また、湖という中の世界で作られた藻が湖岸に漂着した後に結局は生き物としての生は失われてしまうとしても、湖岸周辺やそれらが吹き飛ばされて移動した先へ物質を移動させる流通手段としての機能を果たすはずである。<br>
　生き物はおそらくただひたむきに生きているだけ。その姿や結果に調和や意味を感じ見つけるのは｢人間臭い」所作、あるいは特権なのかも。<br>
　人間はいろいろ四苦八苦してほかの生き物とは一線を画したような活動を地球の上で繰り広げているような気になっているところもあるように思うけれど、宇宙の視点に立ってみると、やっぱり｢生き物」としてのふるまいから外れたものにはなりえていないし、そうはできるものではないと思うのだが、いかがだろう？湖という｢宇宙」が語りかけてくれる物語は、この先、まだまだ著者の視点や思いつき、性格性質人格人生の変化を伴って続けられてしまうのである。うふふふふ。</p>

</div>

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]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>南極の湖の物語　その２２</title>
		<link>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/049#tm1277712551</link>
		<guid>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/049</guid>
		<category>日記</category>
		<pubDate>Sat, 26 Jun 2010 12:00:30 GMT</pubDate>
		<author>工藤栄</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
<p class="ni">「ミクロの目、ウの目タカの目、宇宙の目」</p>
<p class="ni">　目に見えない小さな生き物たちが寄り集まってある一つのしっかりした形のモノを一面に築き上げている世界が、南極の湖の中にはあるのだ、こんなことを語っていたら、いつの間にか極夜の真っただ中が過ぎて行ってしまった。太陽が登ってくるまでにあと20日を切ったところだが、このところ天気がいいせいか、すでに昭和基地の周辺は明るさを増し、春が近づいてきた気配すら感じられる。もっとも、太陽が戻ってきたとしても、寒さが一段と厳しくなるのが7～8月だから「名のみの春」とも言えるのだけれど。ところで、湖の中は？といえば、こんな地上の極寒の気温とは裏腹に、水が凍らない限りは「あんまし関係ないのよ、ワタシたち」という小さきものが、適度の光の到達を歓喜し、おそらくは「さあて、今年も精いっぱい増えてやるかな、おい」と、やにわに活動をし始めるのだと思う。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/MWAfter.jpg" class="search image"><img alt="MWAfter.jpg" title="MWAfter.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/MWAfter.jpg"></a></p>
<p class="ni">　ところで、南極の極夜の真っただ中の「冬至」の時には南極探検の始まり当初から「極夜祭」を催して、日も登らないつらく厳しい時期を乗り切ろうと意気向上を計らうという伝統がある。我が日本の昭和基地もしかり。真の現役「南極料理人」である二人の調理隊員がいつも以上に腕をふるってフルコース料理をふるまってくれたり、ゲームや演芸、スポーツ大会で仲間どうしの絆を深めあったのだった。冬至の今週の冒頭には各国の基地からグリーティングカードがインターネットを介して到着し、それぞれのお国柄や基地の雰囲気がにじみ出るような写真に、我が国の昭和基地の現状を重ねて評価してみたりしたのだった。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/MWFS.jpg" class="search image"><img alt="MWFS.jpg" title="MWFS.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/MWFS.jpg"></a></p>
<p class="ni">　さてさて、このところ引き続き語っていることに話を戻そう。目に見えない幾多のモノが勝手気ままに寄り集まったところで、どうして整然とした形をなすようなモノを築き上げてしまっているのだろう？それもあたり一面が？という私の心の内の問いは、もしかして愚にもつかない疑問の持ち方なんだろうか？そんな些細なことにとらわれているようじゃ、ごく一般の常識人を名乗ることはできませんぜ、旦那、と言われそうなことなんだろうか？そこらへんの判断もつかぬまま、しつこく小さきモノをミクロの目で追いかけてみよう。前回はわけのわからないものをわからぬまま掲載したのだが、今回は仲間の力を借りて顕微鏡を一生懸命覗き見て、何とかわけのわかる代表選手の一部を写真に撮ってみたのが下の図だ。細長い糸くず状のモノ、丸いものが数珠状につながったモノ、いくつかの丸いものが集まっているようなモノ、細長い仕切りのある部屋が連なっているモノ、このほか単独で存在する球形、ラグビーボールのようなモノなど、実に多様なモノと一緒に、不定形のあやしいものや大量の死体までもが混在している、というのは前回の復習。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/tanabefig.jpg" class="search image"><img alt="tanabefig.jpg" title="tanabefig.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/tanabefig.jpg"></a></p>
<p class="ni">　湖底というある場所に落ち着いたいくつもの小さな生き物が、「うーん、いい湯だな！ハハハン&#9835;」という鼻歌を歌うかどうかは定かではないのだが（偶然にも本日6月26日は日本全国露天風呂の日ということもあって、昭和基地では極夜際の時に吹雪でできなかった露天風呂を土曜日の休日日課を利用して急遽営業、おぼろ月夜の南極の露天風呂を楽しんだのだった）、思いのほか南極にしては低温にもならず乾燥もせず、そして緩やかだが融け水がいろいろなわずかな栄養をきわめて少しずつながらも集めてくれる湖の湖底の環境が「極楽・別天地」であったことに狂喜乱舞して思うがまま増え始める。湖底を満たすまでは、それぞれ気ままな増殖を果たせるのかもしれない。やがて湖底一面、そんな気ままな生き物で満たされるようになると「なんだか窮屈な気がしない？おれたち？」とお互いの存在を感じずにはいられない状況になるのだろうか？あるものは他方を乗り越え、自らも積み重なり、下になった方はやがて日の目をみることもできず死んでしまう。もしくは先鋒をきって表面へ進出しようとしたものは太陽に向かって飛んで焼け死んでしまうイカロスのように、湖底にはない新たな環境の危険に生を失うこともあるのかもしれない。<br>
　湖底という平面を、点ほどの存在の小さな生き物の無限に近い生が埋め尽くしてしまうようになると、やがて湖という空間を立体的に利用する方法に思い当ってしまうのだろうか？そして、ある究極の形が立ち上がる。おそらくは今、あるいはこれが築き上げられるに要する過去にさかのぼって、この場に最も「相応しい」形が、偶然に、いや必然的に出来上がってくるように思える。水深10mほどのある湖に潜って観ると、コケを交えたコケボウズの林とフキノトウのような芽生えの畑の風景が、何も湖底からは立ち上がってない平面の広がりを境界として区分けされているように見えたのだ。おそらくは境界を挟んで、小さな生き物の集合体が示す形の異なりは、現状では相互に存在場所の交換ができないなんらかの原因があることを意味しているのかもしれない。また、湖底から何も立ち上がらずに平面のまま小さな生き物で覆われている部分にしても、現状、平面である理由があるのかもしれない。それもごく小さな目に見えぬものの「集合」体としての理由が。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/layer1.jpg" class="search image"><img alt="layer1.jpg" title="layer1.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/layer1.jpg"></a></p>
<p class="ni">　平面な湖底に筒状の透明な管を差し込んで、この部分の小さなものたちを採集してみたのが上の写真だ。きれいに層状を成し、表面から内部に向かって色合いの変化がわかると思う。これを一枚一枚、ポテトチップスのようにはがして並べたものが下の写真だ。もちろん、この一つ一つの層にも、いくつもの種類の小さな生き物が、おんなじような感じのわけのわからなさ加減でまじりあっているのだ。層状に色合いも違うからといって、顕微鏡で見てみた限りにおいて、中に入っている小さなものたちの種類に大きな違いはない。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/chips.jpg" class="search image"><img alt="chips.jpg" title="chips.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/chips.jpg"></a></p>
<p class="ni">　湖底から突き出した芽生えのような部分も、表面はオレンジから褐色を呈し、内部に向かって緑から脱色したような色合いをとり、そして暗色へと移行するという色合いと、多様な種類の小さなモノたちが混在しているという共通性が見られるのだ。だが、おそらくはいまだ調べきれていない「ある時は平面になったり、またあるときはこんな立体構造をとったりする」違いを創り上げている何らかの理由があるのだろうけれど。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/futomaru4.jpg" class="search image"><img alt="futomaru4.jpg" title="futomaru4.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/futomaru4.jpg"></a></p>
<p class="ni">「コレコレ、なにをほざいているのじゃ！その場に出来上がる形に合目性や合理性をはなっから求めるとは何と愚かな行為じゃ、まだワカラヌノカ」<br>
「ですが、達人様…」<br>
「そこにできた形というモノは生と死を繰り返した生き物のひとつの答えなのだゾヨ。そこに出来上がったものの声を聞き、美を感じることのみが真理に近づく道なのだ」<br>
「とはいいますが、『ただ、存在する』ことのみならず、なにかその理由を追求するのが自然科学かと…」<br>
「地球、あるいは宇宙ができて以来、万物は移り変わっておる。いま形あるものというモノはその時々の一瞬に表現されているものナノジャ。生き物はその時の流れの中でただ命をつなぐべく生と死を繰り返しているだけのこと。だから、当然、形には、今、存在しているもとでの意味はある。生き物はもし、最も理にかなった一つの答えを追い求めてその形を作るとしたら、その存在環境が変わったと同時に無に帰すことになるであろう？変化してきた宇宙のもとにおいて生をつないでいる生き物は決して単一の合目的な答えで存在しているわけではない。だからある時は形をとりえず、またある時は綺麗に立ち上がる形をとるとしても、その両者にはその存在場との調和が必ずやあるのジャ」<br>
というような会話を達人様と取り交わした後、そういえば、林や森というモノも、空を飛ぶ鳥から見れば、「いろんな雑多な植物が入り混じってまとまった形を作っている構造なんだよね」と見えなくもないことに思い至った。もし森や林からその主要な植物の死体である土壌や腐葉を取り去ったら、おそらくは森や林は「森や林」として存在できなくなる可能性が高い。この意味で、死体と雑多な生き物から構築されている単位で、何か意味のある集合体になっているように思える。さらに宇宙の目で地球を眺めてみると…人間が活動し、ほかの生き物の化石や死体でコンクリートや家屋を作り、化石燃料やほかの生き物を生活利用しながら町を築き上げている姿、町の規模やスタイルは時代時代で微妙に異なりながら…なんだか、南極の湖底で生じていること、地球の上で生じている生命活動、宇宙の中で生命体が繰り広げている活動の間に、大きな違いが無いのではなかろうか、と思えてきてしまったのだった。<br>
　うむむ、うむむ。</p>

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	</item>
	<item>
		<title>南極の湖の物語　その２１</title>
		<link>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/048#tm1277075055</link>
		<guid>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/048</guid>
		<category>日記</category>
		<pubDate>Sun, 20 Jun 2010 22:57:00 GMT</pubDate>
		<author>工藤栄</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
<p class="ni">「小さきモノへ」</p>
<p class="ni">　月日が流れる速度というのは、おそらく人類が地球上に誕生してから不変。一日は24時間、一年は365日というように変わっていないはず（微妙に地球の自転とか公転周期が揺らぐのはあるのかもしれないけど）。だけど、自分が誕生してから現在に至るまでを考えると、時の過ぎゆく速度が年齢を重ねるごと、だんだんと短く速くなっているように感じられるということは、どうやら私だけではないようだ。大概の大人はそう思え、古から「光陰矢のごとし」と、時の流れの速さを感じて自らを律してきたが、こんな言葉を子供が自ら口にするには不自然で、ぴったりしない。このことわざ自体を使うにふさわしくなるには必然的に人生経験が必要。だから高齢になるほどふさわしいいものとなっていくと思えることから、一般論として「感覚時間」はヒトの齢とともに短くなるものらしい、という仮説を導くことができる。<br>
　またしても、のっけから妙な書き出しではじめてしまったこのブログ。極夜の真っただ中の「冬至」に、とうとうこのタイトルの連載で20回を超えるという、なんとなく一つの「ターニング・ポイント」を迎えるまでになってしまったので、柄にもなく気取って妙に哲学的なタイトルをつけてしまったことに引っ張られてしまった。が、最後までこんなトーンが続くとは、筆者であるにもかかわらず、今回もまた保証できるものではない。極夜の空には日が登らないにもかかわらず、あやしくオレンジの光を放つ雲が見えだしてきた。地球外生命体が私を監視を始めたのだろうか？いや、これは空の成層圏付近の高いところに発生した雲が地平線の下の太陽で照らし出されてものらしい。PSC（極成層圏雲：20～30km上空の雲）とか真珠母雲と呼ばれ、オゾン層破壊を進行させる現象にかかわりをもつとされ、最近、注目されていたりする。そんな世の中や宇宙の注目を一切気にしないで本題に入ろうかな、と思うのだ。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/psc.jpg" class="search image"><img alt="psc.jpg" title="psc.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/psc.jpg"></a></p>
<p class="ni">　南極の湖底で奇妙な構造物を創り繁茂する生き物。顕微鏡で見なければわからないぐらい小さなものが寄り集まって、なにかひとつの「全体として整った」秩序ありそうな形を作る、この理屈が、あるいはその存在の意味が、何かあるようだがわからない。蜘蛛に聞いてもわからない、牛に聞いてもわからない、達人や地球外生命体も意地悪なことに教えてくれない、ワンワン、ワ、ワーンの犬のおまわりさん状態なのだ。まだ何か重要な「語りべ」の登場が必要なのかもしれない。<br>
　しっかりした認識できる形をもつものが小さなものからできていること自体は、どこにでもあるごく普通の現象だ。自分の体をもってしても、体は手とか足、あまり使わないけど頭とかのパーツから出来上がっているし、そのパーツも骨とか筋肉、その他皮膚とか必要以上の脂肪とかからできていて、さらにはそれらはすべて細胞という小さな一区画からできている。その細胞すら、細かくするといろんな細胞小器官という細かな部品からできあがっており、それらはいずれもいろいろな元素を素材として組み合わせたモノからできている。だから小さいものから目に見える大きな秩序ある形あるものができるのは普通のことと言っていい。ただし、骨や肉、血球など見た目の形の違うモノではあるのだが、それらは「自分の細胞」という普遍的に同一といえる単位のものが、あるものは骨となり、あるものは肉となり、というように統率がとれて組みあがってできた作品と見ることができる。由来は一つの自分の細胞、それならきっとうまい具合に命令制御すれば何とか形あるものができそうな気もする。できた作品が我がままな暴君となりふるまってしまうこともままある気がするのだが、それは、かたちとしては何とか形状を保てたのかもしれないが、どこかの過程で失敗があったせいなのかも。ま、これにはここでは深く追求はしない、ことにしよう…。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/micro.jpg" class="search image"><img alt="micro.jpg" title="micro.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/micro.jpg"></a></p>
<p class="ni">　湖底から草木の芽のように突き出しているものたちをとってきて顕微鏡で見てみたのが上の写真だ。見てのとおり、糸状の長いもの、小さな丸っこいもの、不定形の茶色っぽい何かが思うがままただあるようにしか見えない。こんな存在状態のモノに何か秩序めいたものを見つけることができる人がいたらすぐにでも名乗り出てきて、私に教えを授けてください。たとえば、ワカメや海苔のような目に見える大きさの葉っぱのようなもの（葉状体）を作っているものを顕微鏡で拡大してみると、実に秩序だって細胞が並び配列されている様子がわかる。一つの例として南極の夏に雪解け水などで湿地のようになるところに生えている「ナンキョクカワノリ」の拡大写真を下にしてしてみた。このように整然と配列されているなら、何か決まった形が築かれそうだ、と思えるだろう。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/kawanori.jpg" class="search image"><img alt="kawanori.jpg" title="kawanori.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/kawanori.jpg"></a></p>
<p class="ni">　混在している細長い糸状のモノと丸っこいもの、そして不定形のなんだかわからないものが、もし、鉄筋コンクリート建築のように、糸状のモノが鉄筋のようにかたちの骨格を築き、それをくっつけ覆うように他のモノたちが配列されているのなら、複数の生き物が「麗しい」共同生活をしているのかもしれない、と思い込んで、先へと考えを進めることもできる。残念なことにそれは私にはどうあがいても思い込んでしまうことすらできる気がしない。さらに、悩ましいことに、この顕微鏡写真からは、多分生きて活動していると思えるものばかりではなく、完全に死んですっからかんになった微細な藻類の亡骸が実に多量に見つかるのだ。フキノトウの芽のように生えているもの（通称フトマル君）の内部はいくつもの種類の小さな藻類の亡骸で満たされている。芽のような構造の表面から数cmぐらい内部までには生きている複数の藻類を「かろうじて」見つけることができこそすれ、おそらく存在量としては半分以上が死体。10cmも下になると、ほとんど死体だけといってもいいぐらいなのだ。生き物は生きていればこそ秩序を創り出すことができる。死んでしまったものに秩序を維持させるような何ものかを求めるのは無理ということのような気がする。死体はただそこにあり、やがて朽ちて無に帰す、むしろ秩序だったものが壊れて無秩序化する過程にあるものであろう。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/dead.jpg" class="search image"><img alt="dead.jpg" title="dead.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/dead.jpg"></a></p>
<p class="ni">　だが、もし無秩序化する過程がきわめて長く、死体が無に帰すまでに生きているモノの寿命以上を要するのなら…それは形を築く上で、何らかの基礎として有効であるばかりか、死体が壊れ分解されていくときに出てくる物質は生きたものの資源の貯蔵庫のように機能するはず。普通の環境なら生き物は死とともにきわめて速やかに分解されて物質の循環の輪の中に戻るのだが、「冷蔵庫」のような南極の湖の中では分解がゆっくりとしか進まないゆえ、死体が普通の死体以上の存在意味を持っている気がするのだ。だからと言って「死体」が「オレノ　シカバネノ　ウエヲ　ノリコエテ　イキヨ」とゾンビのごとく命じ、生きたものをコントロールして湖底に見られた整然と生えそろった畑の芽生えのようなものを作らせていると考えるよりも、やっぱり生きたモノが「お、ひとつこの上を使って、ひと山作ってみようぜ！」と寄ってたかって宝の山に群がる盗賊どものように…と考えた方が健康的な気がするのだなあ…。</p>
<p class="ni">　なんだか、今回はかなり理屈っぽい愚痴のような感じになってしまった。複数の生き物が寄ってたかって、ついでに死体やらわけのわからんものも寄せ集まって、あたかも「一つの個体」みたいな形をとって群生している。それは複数の生き物の協調してつくりだしたものと見ることができるのかもしれないし、ただ単にそこで生きていくうえで当然そんな形をなしえているのかもしれないし、はたまた、たまたまそんな形になってしまっているだけのこと、なのかもしれない。これの答えは、無理やりわかったようになるんじゃなくて、おそらくきっと仏教の「悟り」あるいは「大悟」の境地が必要なのかも、と思っているのでした。まる。<br>
　次回は？悟りきれない吾輩が、苦悩の果ての何かを書くのか、あるいは思いっきり話題転換して軽ーい話にもっていくか、どちらになるかは、本人すらわからないのでした、やっぱり。</p>

</div>

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	</item>
	<item>
		<title>南極の湖の物語　その２０</title>
		<link>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/047#tm1278405292</link>
		<guid>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/047</guid>
		<category>日記</category>
		<pubDate>Sun, 13 Jun 2010 14:17:53 GMT</pubDate>
		<author>工藤栄</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
<p class="ni">「ナヤマシさ、不思議さ」</p>
<p class="ni">　南極の湖の湖底に茂るモノ、目に見えるほど大きくしっかりとした形を作り、整然と生えそろっているのに、その実態がわからない、これは単に筆者のボンクラ頭のせいばかりではない（実はボンクラだからということを隠す方便・詭弁の恐れもあるので注意）、こんなことをウシや地球外生命体を引き合いに出して前回は語ってしまった。おかげで昨日から南極昭和基地は荒れ模様、せっかくの休日なのに基地の中に閉じこもった暮らしを余儀なくされている。土曜日の夜の食事は隊員みんなでなべ料理を囲むということが多いわが隊の食事事情なのだが、しゃぶしゃぶだったにもかかわらず、牛肉ではなく豚肉となっていた背景には、もしかしてウシ方面から何らかの「難」が申し出され、ウシ関係の供出がストップされた恐れもある。今後、さらに注意しなきゃいかん、直接の抗議行動をとられることが無いように。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/myouga1.jpg" class="search image"><img alt="myouga1.jpg" title="myouga1.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/myouga1.jpg"></a></p>
<p class="ni">　湖底から立ち上がり、目に見えるしっかりした形のモノを作っているのは「コケボウズ」だけではない。コケボウズからはコケ＋藻＋顕微鏡で見ただけだとなんだかよくわかんないもの、この三者を構造物中に見いだすことができる（注意！藻はかなりの種類がいるし、わけの分かんないものはそれこそわかんないので、セイカクには三者と言ってはいけない気がするのだが、ややこしくなるので、ひと先ずこの区切りで勘弁してクダサレ）。実はこの三者が構造物をつくっているものとして、湖底から芽吹いた茗荷筍（茗荷のタケノコのような芽生え）のようなものもある。上の写真のように湖底の辺り一面、まさに茗荷畑のように生えているのだ。茗荷筍のようなものが本当にコケやアヤシイものから出来上がってくる様子は、こんな畑のような場所の中をよーく観察してみればわかる。湖底からツンツンと徒長して伸びたようなコケが、クモの巣のような何ものかに絡まって、それがなんとなくまとわりついて、茗荷の芽のようになっていく過程にあるものが見つかるのだ。クモがクモの糸を駆使して捕まえたエサをぐるぐる巻きにしちまうのなら、出来上がったぐるぐる巻きのモノはクモが作った作品ということで納得がいく。八幡巻きや恵方巻きはヒトが食べたいものを組み合わせ、鶏肉でゴボウ・人参といったものを巻いたり、海苔でご飯や魚介類を巻いて作ったものだ。いろんな材料からできていても、それを創り出そうとしたモノの主体が明確だ。ところで、このコケを絡めまとわりつかせているのは、いったい何で、だれがそんなことをしているんでしょう？実はいまだここら辺がわからない。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/myouga2.jpg" class="search image"><img alt="myouga2.jpg" title="myouga2.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/myouga2.jpg"></a></p>
<p class="ni">　世の中には知らなきゃいけないこと、知って利益となること、得をすることもあるのだが、実は知らなくてもどうでもいいこと（知られては困ることに関してはどこかで書いた気もするので略）がはるかに多い。コケボウズや茗荷筍のようなものをまとわりつかせている物質なり、それを作り出している生き物を判別しなければならないという使命が、もし、国家事業として観測隊に与えられ、そのための予算編成が国会を通過してしまった暁には、現在の科学の進歩を考えればそれらの事柄をたちどころに白日の下にさらすことができよう。だが、こんな南極の湖底の生き物が発見され１０年以上が過ぎたにも関わらず、いまだそのへんの気配すらない。一つにはそんなことはいつでもやろうと思えばできるさ、試料はすでに手に入っているし、という我々の安心感と、この先、プロジェクトを立ち上げて予算要求を…するまでもなかろうという危機感のなさから、国家的気運の盛り上がりを創り出すことに失敗していることが理由と思われる。いま一つはそれがわかったからといって、じゃあなんなのさ？という、「わかったところでどーでもよさげであること」のようで、そんなことに税金を投入して研究をすることの説明に困る「説明責任回避」的コトガラが絡んでいる気もする。給料日前にお小遣いをほぼ使い果たして釣竿を購入してしまい、週末の釣りに出かける資金獲得のため残りのお金をパチンコに投入してすっからかん、暗い気持ちで家へたどり着いたときに妻とばったり出会い、「どこに行ってたの？」と声をかけられた時のような気持ち…といえば、わかってもらえるか、どうか？<br>
　ならば、この秘密に迫る手段はないのかといえば、残された手段として、この秘密をちょっとは面白いと思って「知ってもいいかな？知りたいな―」と思ってくれる仲間を増やすことがいいのかもしれない。ブログ読者の中にこの辺の面白さを感じ、実は構造物や組成成分の分析は「朝飯前、任せなさい！」と申し出てくれる人を、パチンコで負けて途方に暮れることができない南極で、清らかな心で精進を重ねながら祈りをささげているのである。祈りの効果かどうか定かではないが、これをここまで書きすすめたところでブリザードが吹き止んだ。よしよし、次に進めという思し召しだな。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/futomaru3.jpg" class="search image"><img alt="futomaru3.jpg" title="futomaru3.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/futomaru3.jpg"></a></p>
<p class="ni">　湖底から立ち上がる構造を作るモノとして「コケボウズの材料からコケを差し引きしたもの」から出来上がっているものもある。上の写真のようにフキノトウを整然と生えそろえさせた感じにも見えるモノたちで、以前、達人に「フトマル…君」と命名されていたものである。コケは、まあ、目を凝らして見れば、茎や葉の形をちゃんと認識できるぐらいの大きさのモノで、その芽が伸びてくれば数十センチメートルに達することは、日本にいても比較的ラクに、いや、真剣に探せば見つかるものである。そして、そんな大きく伸びる体に何かがまとわりついて一つの大きな形を作ってしまうということ自体は、「ああ、そんなことがあってもいいのかな？理解できるな」などと想像もしやすい。ところで、そんな構造の芯となるようなコケが無くても「藻＋顕微鏡で見てもわけのわからんもの」が寄り集まってかたちを作っていることはどうだろう？十センチメートル以上も湖底から立ち上がり、芽のようなものを創り出し、そんな有象無象の寄り合いが湖底一面背ぞろいした畑のような状態を創り出しているのだ。この「藻」はまたワカメや昆布・マコモやキンギョモのような大きな姿のモノではなく、顕微鏡でなければ認識できないような、「アオミドロ」とか「アオコ」とかに代表されるような微小な藻なのである。アオミドロにしろアオコにしろ大量発生した暁には緑の浮遊物として人目につくことはあるだろうけど、寄り集まってなんかある一定の形を創るっていうワザを見せてくれることが、どっかにあるのかなあ？私の限られた人生の中ではこの南極の湖の中以外で、まだそんな場面に出会っていないのだが。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/tosaka.jpg" class="search image"><img alt="tosaka.jpg" title="tosaka.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/tosaka.jpg"></a></p>
<p class="ni">　複数の種からなる微小な藻、そしてなんだかよくわかんないものが絡みつき合って、「ある形あるもの」を作っていること。それも一つ二つといったものじゃなくて、あたり一面おんなじようなかたちのモノを作り上げるって、ナヤマシくも不思議だなあ、と素直に思いませんか？</p>

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]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>南極の湖の物語　その１９</title>
		<link>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/046#tm1276068075</link>
		<guid>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/046</guid>
		<category>日記</category>
		<pubDate>Mon, 07 Jun 2010 19:42:16 GMT</pubDate>
		<author>工藤栄</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
<p class="ni">「もっとヒミツに接近か？」</p>
<p class="ni">　南極の湖底には、一見、プリンやケーキの「お菓子の国」さながらの世界があるぞ、と、「極夜の南極の夜長の妄想」と思われても仕方のないことを、前回は書いてしまった。こんな「なんとなくうそっぽい」ことばかり書いていると読者からは批難、達人からは苦難、神からは災難を与えられ、この先、それが見た目の真実、本当に私の周りで生じたことなのだ、と叫んでみても、書き続けて行くことに困難をきたしてしまいそうだ。このように私には「難」はいとも簡単によってたかって身の回りにかけよってくる。そしてそれらをまとわりつかせ侍らせる才能までもがあるらしい（ただし女難をのぞく）。逆に、同じようによってたかってくる称賛・絶賛・協賛・賛成多数、など「賛」関係の方面は近づいてくる気配すら察知できない。このブログは、幸いなことに読者からのコメント受付などの書き込みなどが設けられていない、南極の湖中のように静まり返った無音空間。だから、読み手の反応を気にすることなく、好き勝手に著者が思ったがまま書き綴っていける貴重な場となっている。そんな全く反響なしなのおかげで（苦情はもちろん、もしかして間接的にこのブログのせいで過食症になったという訴えや、花粉症と痴呆症の治療効果があるという報告をふくめ、そんな間接的な反響も南極までは届かない）、今のところ私は睡眠障害に陥らずに生活できている。そうなのではあるものの、書きあげて、ポチッと保存ボタンを押した瞬間、「難」関係到来の気配を感じてしまうのは、私の感覚がたぐいまれな鋭敏さを持っているという証拠か、それとも、何か後ろめたさを感じなければいけないヒミツがどこかにかくされているからなのか？<br>
　「いやいや、モシ。お暇とご興味の際は、ちょっと立ち寄ってみてください、少しは日常世界と離れたものモノに接する入り口かもしれませぬ。ふふふ」という、つつましくもアヤシイ気持ちを秘めて書き続け、この先もこのブログを大事にしていかねば、と思うのです。あれ？どっかに避難を始めたのか、私は？<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/B4mossp.jpg" class="search image"><img alt="B4mossp.jpg" title="B4mossp.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/B4mossp.jpg"></a></p>
<p class="ni">　さてさて、私やこのブログのヒミツではなく、件の湖に生えているヤツラ方面へ話題を持っていかねばなるまい。以前も一度この写真を出していたが今一度。道路工事の三角コーンとその形やサイズそっくりのやつらのてっぺんの部分を拡大したのが上の写真だ。何やら緑のモノが見えるだろう。読者によってはオレンジ色っぽいツンツン突き出した角のようなモノの方に目を奪われた人もいるかもしれない。緑に見える部分に目を奪われた方は愛妻家でツノ方面に意識を持って行かれた方は恐妻家…などという深層真理に基づく「性格判断」をしてもいいのだが、いやいや、やめておこう（今回はイヤイヤという繰り返し言葉が多いなあ）。緑の部分は水の中で生育しているコケの「葉」が開いた状態のモノが数多く集まっている場所なのだ。どのぐらい集まっているかというと1cm四方あたり200本以上。これはもはや隙間なくビッチリとコケの茎が、午前8時台の埼京線上り十条駅通過時点の混雑状態で詰まっているようなものだ。「おおそうなのか！そこまでの密生は凄い！」と誰か感激してくれれば幸いだ。おそらく現在の世界情勢を鑑みても、こんな「役にも立たなそうなこと」を知っているのは、私とこのブログの読者だけかもしれないのだ。70億人ぐらいいる世界のヒトの中で、ごくわずか、一握り。ブログの読者が10人に満たない場合、10本の手の指に入る人となれるってわけだ。しかし、そのことを知って記憶にとどめておくという所作は、ヒトの日常には何も役に立つことはあるまいなあ…。私だって、ついさっきまで忘れていたのだ。<br>
　たしか7，8年前、じみーにこの三角コーンのようなもののコケの数をひとり研究室に居残って数え、論文の中に記述したっけなあ？そういえば、この論文が出るまで、南極のコヤツラの中のコケの生育密度なんてことは、世界中だれも知り得なかったことだったはずだなあ。そんなことをこのブログを書きながら思い出したのでしだ。「まあ、役に立つかどうか、今はそのことをだれも評価もできないだろうけど（この先評価される可能性は70億分の1よりはるかに小さい気がしている）、事実だけはちゃんと記述して残してやらねばなるまい。」それでいーのだ、と。世界でまだだれもやったことのないコケの茎の数について、ピンセットで一本一本拾い集めて数えたってわけ。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/paper.jpg" class="search image"><img alt="paper.jpg" title="paper.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/paper.jpg"></a></p>
<p class="ni">　コケが数集まって、この形を創り出しているのか？というと、それだけではない。ビッチリとヒトをもう乗れないって言うまで詰め込んだ電車にも「足の隙間」「顔と顔の隙間」などがあるように、このコケの密生したものの中にも「意外に」隙間があるものだ。この隙間には「藻類」が野菜サンドイッチのマヨネーズのように（むむ、あまり適切じゃないかなあ？この表現）コケの茎をひっ付けている感じで存在しているのだ。さらにもう一回、先頭の写真を見てもらおう。ツンツンした角のように見える部分は、なぜか徒長してしまっているコケの茎なのだが（理由は分からないですので聞かないでください）、それをコーティングするようにオレンジ色の藻のやつらが取り付いているのである。モノの数から行くとコケの茎の数よりも藻類の個体数の方がはるかに多い、はずだ（あ、この藻類の数を数えたら、きっとまだ世界で知らないことを最初に調べ報告した人になれるぞ！）。ひとたび顕微鏡でこの三角コーンの一部をちぎってのぞいてみると、気の遠くなるような数の生き物が集まって暮らしていることに気づくのである。<br>
　いつまでも三角コーンのようなもの、と呼ぶのに鬱陶しさを感じてきたなあ。この名前を「コケボウズ」と名付けよう、こう提案したのは、昭和基地のそばの湖でこの生き物が林立していることに気づき驚いて世の中に知らしめた私の先輩である。寒冷な湿地、根釧台地に広がる湿地などにミズゴケやスゲなど植物が集まり塔状に盛り上がるものに「谷地坊主」という名がつけられているのだが、それとの絡みで「コケ坊主」って、なったのだった。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/koke.jpg" class="search image"><img alt="koke.jpg" title="koke.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/koke.jpg"></a></p>
<p class="ni">　それにしても、このコケボウズ、はたしてコケがつくった形と言っていいのかどうか？私にはいまだわかりかねている。なぜなら同じ種類のコケが、密生しながらもカーペット状になっていたり、ふさふさとした様相で生育していたりと、湖の中で必ずしも尖塔のようなかたちを作っているものばかりではないからなのだ。目に見える大きさの形を創り出している生き物がいる。それがその目に見えた形を作っている基本となっている生き物、それがコケであったとするなら、それをさして、「ああ、コケボウズね。あれはコケが南極の湖の中で示す一つの生き方なんだよねえ」みたいなことを自信を持って言い切るんだけど。はたしてコケはコケボウズの基本か？コケが形を作っているのか？と考えだすと妙な感覚にとらわれてしまうのである。この妙な違和感を他人に説明するのはちょっと難しいかもしれない。これは主に私の表現、説明力の無さゆえ。それでも…</p>
<p class="ni">　ひとつ例を示そう。たとえば「ウシ」というモーと鳴き草を食べ、ときに最近は狂牛病になってしまう動物がいる。この存在になにもウソはないだろう。（たとえば、このブログ読者の男性の彼女、もしくは女性読者のあなたが、いつも「もぅー」とプンプン怒って、最近ダイエットのために野菜サラダ主体の食生活をしていたが挫折、リバウンドで牛肉の焼き肉をしこたま食い続けて、狂牛病の疑いをもたれてしまった、この女性はたとえ牛と見間違うような様相になるまで成長してしまっていたとしてもウシではない…みたいなことを書き続けてしまうと、絶妙に面白そうだが、シコタマうそっぽくなる。）そこへ、ウシなど地球型生命体を見たことが無かった地球外の高度文明をもった生命体が地球探検に来た（ウソっぽさを宇宙空間まで広げちまうと、なぜか許せてしまえるものだ）。動くモーと鳴くモノに出会った（あなたのことではない）。何だこれは？と思い、サンプルとしてウシを捕獲して調べてみることにした。ひょんな興味から、この動くものはどんなもので作られているのだろう？と、地球的科学の常識なら骨格とか筋肉とか組織とか器官を調べるところを、異星人たちの科学的手法の主流は、まず、体全体から見つかる生き物の種類を調べることだったのだ。ウシの腸内にはおびただしい数の腸内細菌が見つかるはずである。原生動物もうじゃうじゃ見つかる。この異星人はこの地球でウシと呼ばれるモノは大部分が一系統の遺伝子情報を持つ牛本来の細胞から構築されるが、そのほかきわめて多様で異質な遺伝子情報をもつ生き物が、数の上ではどちらが多いかわかんないぐらい見つかる、という事実を掴んで驚愕するわけだ。はたしてどちらがこのモーと鳴くモノを「ウシ」として存在させているのだろうか？なーんて。地球外生命体、悩まないかなあ？なんて愚にもつかない心配をしてしまうのだ。<br>
　しかしウシはウシだけの遺伝情報で腸内細菌なしにも存在できるのだろうから、あの動いてモーと鳴く大きな動物は「牛」と呼んでいい気がするけれど（たとえば牛が間違って正露丸を食べてしまうと、腸内細菌が全滅しちゃうかもしれないけど、ウシはモーと鳴き草を食べて生きていることができる、みたいな実験で実証可能…）、「コケボウズ」はコケだけで存在していないし、コケ以外のモノを取り去るとコケボウズとして存在しえない。単なる密生したコケとなってしまう気がするわけで…。こんな感じだから、「ああ、あれはコケ」なんだよね、と、目にみえる立派な大きさの形を作っているモノに対して、断言することのできないということに、イラダタシサや「違和感」を感じちゃうわけなのです。感じてきたでしょ？</p>
<p class="ni">　ううう、妙な例示のせいで、地球外生命体からも難を与えられそうな気までしてきたのだ。この辺でやめておけばいい気もするが、実は次回も、もう少し、違和感に付き合っていただく人を募集したいのだった。では、また。</p>

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	</item>
	<item>
		<title>南極の湖の物語　その１８</title>
		<link>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/045#tm1277636859</link>
		<guid>http://www.akt.co.jp/akt-blog/adiary.cgi/nankyoku/045</guid>
		<category>日記</category>
		<pubDate>Tue, 01 Jun 2010 18:23:04 GMT</pubDate>
		<author>工藤栄</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
<p class="ni">「藻原のヒミツ？」<br>
　前回は南極の湖底にはいろんな形の何ものかがニョキニョキ生えているきわめてアヤシイ世界で、しかもその湖底自体は立つこともできないほど底なし沼化したものなのだ、というイメージをブログの読者に伝えたかもしれない。ところで、人生の達人的モノの見方によってはメルヘンの「お菓子の世界」が広がっていると、とらえられなくもない、とも書いた気もする。今回はそんな人生の達人の感性を通じて、これらの様々な形を示す生き物に、もう少しクローズアップしてみよう、と思いついてしまった。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/koritsu.jpg" class="search image"><img alt="koritsu.jpg" title="koritsu.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/koritsu.jpg"></a></p>
<p class="ni">　とある湖へ潜水降下し、湖の中央部に広がる平坦な最深部へたどり着く。上の写真のように、わずかな突起がみえる緑の平原の広がりのところどころから尖塔のようなものが立ち上がっている。青く透明な水の広がりの中、そのものは青緑色を帯びたブロンズの彫像のようでもある。凛とした姿でひとりたたずむ姿は、いかにも「沈黙」が似合う。動いているものは潜水をしている自分だけ。ふと、水面をみあげると、風の引き起こした波紋で太陽の光が風で揺れるカーテンのようにたなびき輝いている。その中を自分の吐きだしたエアが無数に輝きながら上昇している。<br>
沈黙→落ち着き→大人のシブさ→高倉健方面へ思考をめぐらしながら、ひととおりこれらの生き物のサンプルを採集して、<br>
「ふふ、ミッション完遂、だな…」<br>
と静かな満足感を心に抱いて岸辺へ帰り着く。<br>
　と、そこでは湖底から引き揚げられたサンプルを手にした達人たちが、周囲の山々にこだまして轟くペンギンのオタケビにも似た嬌声をあげながらなにやら盛り上がっているではないか。<br>
「うわー、このプルプル感、ぎりぎり固まったプリンみたい、たまんなーい！」<br>
「このマーブルケーキみたいな、縞々、美味しそー（顔を近づける）！あ、ゲッ、何このくっさい臭いは―？だめだめ、プンプン！」<br>
「こっちはミルフィーユみたいじゃない？あー、もーしばらく食べてないなー、ケーキ。誰か美味しいの作ってくれないかなあー」<br>
「おお、これは！タルトケーキっぽいではないですか！」<br>
「チーズケーキっぽいのもあるよ！どっちが好き？」<br>
どうやら達人たちには沈黙は似合わないようである。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/crispy.jpg" class="search image"><img alt="crispy.jpg" title="crispy.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/crispy.jpg"></a></p>
<p class="ni">まあ、にぎやかなことこの上ないが、確かに水の中から引き揚げた湖底の試料は、水中で見えていた青緑っぽさが全くなくなり、黄色やオレンジ色の鮮やかな色合いで（以前、湖の中に入りこむ光のことを紹介した際に、水の中では長い波長の赤っぽい光は吸収されるから深くには届かないんだよ、って書いたことを覚えているだろうか？地上で赤やオレンジ色に見えるものをその波長の光が無い世界においた場合、それらの色を認識することができないのだよ）、その手触りといい、固さといい、南極では久しく見ることが無かった（南極での野外調査は基本的にキャンプ生活なので、よっぽどのことが無いとケーキは食料として持ってきてはいないのだ）高級洋菓子にそっくりなものが、いろんな湖沼を調査していくにつれ、次々と見つかってくるのだ（なんだかカッコつきの説明文の方が長くって読みにくいがご勘弁を）。ビスケットのような固さのものから、シフォンケーキのようなスポンジ状のもの、チョコフレークを固めたようなものまで、いろんなものがある。達人たちの欲望が集団幻覚を引き起こさせたか、はたまた、湖底の世界に奇跡までをも生じさせたのか？<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/miruf.jpg" class="search image"><img alt="miruf.jpg" title="miruf.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/miruf.jpg"></a></p>
<p class="ni">とある湖の調査をしていたときのこと。ボートの上からのぞき眼鏡で、周辺とはちょっと雰囲気の違った湖底を発見したのである。このときには、我々には確固とした目的があった。オレンジ色のスポンジケーキをちょっとばかりおやつにしようと、いやいや、スポンジ様の生き物を実験材料にしようと、湖底からニョキニョキ生えている道路工事の三角コーンのようなものが立ち並ぶ隙間の平坦地に採集道具を操りおろそうとして、ボートの上から湖底の様子を目を皿のようにして観察していたのである。そんなときに、<br>
「あ、クドさん。この下に、なんかもっのすごっくワルそうな、チャボウズ君がいるんですが、とってみましょかね？」<br>
「（…極悪の茶坊主君だって？ってまた、いつものようにへなちょこなネーミング、しやがったなあ…）え、どこだい？いいよ、とにかくとってみるとするかね？ん、じゃ、ボートを誘導してくれたまえ」<br>
ちなみにこの達人はつい先日「フトマルミニトサカ」なる名前を、下の写真にある湖底から5～10cmほどの突起を作って立ち上がっているオレンジ色の物体に命名したばかりである。太くてまるくて小さくてとさかのようなものだから、って、見たままの印象を羅列したようなのだが、日本語と英語交じりの命名はいかにも現代に生きる若者らしい名づけ方、なのだな。このほかにも、ミニマル君、ニキビちゃんなど、お菓子系統「食欲派」の命名ばかりではなく、達人は「印象派」の命名も得意とするところであるのだ。ともかく、指示に従って、私は従順にボートを細かく操船することにしたのだった。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/Futomakuro.jpg" class="search image"><img alt="Futomakuro.jpg" title="Futomakuro.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/Futomakuro.jpg"></a></p>
<p class="ni">「あいよー！もっと右、はい、そのまんま停止！うんしょ（採集器を下ろす気合の掛け声）。ターゲット、ロックオン！死ねー！！」<br>
「バスッ（と試料採集器が閉じる音）」<br>
と、傍で聞いていると何とも物騒な言葉まで発するほど、達人は夢中にそして真剣に試料を採集したのであった。達人の気合のこもった発声がおわって、ようやく緊張が解けた私はボートをこぐ手を休めて水中をみた。確実に水深4m下のターゲットのど真ん中を採集器が貫いている。完璧。この先絶対に達人に恨まれるようなことをしないほうが身のため、恨まれたら命がいくつあっても足りなそうだとの恐れをいだきながら、取り急ぎ試料を引き上げて、湖岸へとボートを漕ぐのであった。<br>
<a href="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/orange.jpg" class="search image"><img alt="orange.jpg" title="orange.jpg" src="http://www.akt.co.jp/akt-blog/public/image/nankyoku/201006/orange.jpg"></a></p>
<p class="ni">　湖岸でボートから機材と、今さっき確保した試料を積み下ろして間もなく、達人はやにわに採集器の中に入っている試料を真っ白なトレー（お盆）の上にとりだしたときのこと、<br>
「ほょー（ドクタースランプのアラレちゃんの驚きの声を10倍ぐらい強烈にした感じ）！！！！」<br>
「どしたの？おお、これは…」<br>
上の写真、どう見てもオレンジゼリーをとろーりとかけたデザートっぽいお菓子にみえませんか？半透明のゼラチンのようなプルンプルンのオレンジコーティングが美しい、ナニモノカなのである。触った感じもまったく上質なゼリーって感じ。これって、本当に生き物なのか？生き物としては見たことが無いけど、おなじみのモノのような…という驚きよりも、その何というか、正直、甘酸っぱいデザートを前にした時の幸福感のようなものを達人は表情に浮かべているではありませんか。<br>
「ちょっと、誘惑されちゃいますねえ…食べてみませんか？…（無味）むむ、甘くも酸っぱくもないのですねえ」<br>
「おいしそうなんですけどねー」<br>
注意してほしい。生物学者はいろんな場面で五感を通じ、自分の対象を観察するという性癖があるのだ。上の会話や行動は、何も特別に脚色したものではなく、ごくフツーに私の周りでは交わされているものである。いずれまた近いうちに別のおいしそうに見える南極の湖のモノを紹介することもあるので、この辺のことは覚えておいてほしい。ちなみに、これまでここに写真であげたモノ、チーズケーキのようなものにしろチョコフレークにしろ、ミルフィーユにしろ、タルトにしろ、その味覚は、何といいますか、全く味わいにかけているわけでして（達人たちの厳命で私は事細かに食味をチェックさせられていたのだ、無言の圧力ゆえ自発的な行動をとらされていたのだが）、この辺のものを大量に採集し、ひとつ南極特産品としてひと儲けしてやろうじゃないのさ、という目論見は全く成り立たないのですな。補足までに、まだ、私は死んではいないことから、これらはモーレツな毒を持っているものではなさそうだ、ということは身をもって証明できた気はしている。このことはきっと正しく人類に貢献できたこと、と自負したくなってきた。</p>
<p class="ni">さて、まとめてみよう。湖底にはなんだかアヤシイ形をしたものがわんさかいるらしい。そしてそれらは取り上げてみると、目にも鮮やかな色合いのお菓子のようなものであった（おいしくないけど）。こんな知識として役にたつかどうか全くわからないようなことを、不覚にも達人たちの念に押されて書いてしまった。はたしてこんな説明で終始していいのだろうか？かなり不安が増してきたところで、今回は無理やりおしまいとしてしまうのだ。</p>
<p class="ni">とうとう一日中太陽が昇らなくなってしまった南極昭和基地。闇に支配され情緒不安定になりがちなこの季節、真実に迫るような次回の展開ができるかどうかは、全く定かではない…。</p>
<p class="ni">　</p>

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