ようこそゲストさん

南極ブログ通信

メッセージ欄

2010年6月の日記

2010/06/26(土) 南極の湖の物語 その22

2010/06/26 21:00 日記 工藤栄

「ミクロの目、ウの目タカの目、宇宙の目」

 目に見えない小さな生き物たちが寄り集まってある一つのしっかりした形のモノを一面に築き上げている世界が、南極の湖の中にはあるのだ、こんなことを語っていたら、いつの間にか極夜の真っただ中が過ぎて行ってしまった。太陽が登ってくるまでにあと20日を切ったところだが、このところ天気がいいせいか、すでに昭和基地の周辺は明るさを増し、春が近づいてきた気配すら感じられる。もっとも、太陽が戻ってきたとしても、寒さが一段と厳しくなるのが7〜8月だから「名のみの春」とも言えるのだけれど。ところで、湖の中は?といえば、こんな地上の極寒の気温とは裏腹に、水が凍らない限りは「あんまし関係ないのよ、ワタシたち」という小さきものが、適度の光の到達を歓喜し、おそらくは「さあて、今年も精いっぱい増えてやるかな、おい」と、やにわに活動をし始めるのだと思う。
MWAfter.jpg

 ところで、南極の極夜の真っただ中の「冬至」の時には南極探検の始まり当初から「極夜祭」を催して、日も登らないつらく厳しい時期を乗り切ろうと意気向上を計らうという伝統がある。我が日本の昭和基地もしかり。真の現役「南極料理人」である二人の調理隊員がいつも以上に腕をふるってフルコース料理をふるまってくれたり、ゲームや演芸、スポーツ大会で仲間どうしの絆を深めあったのだった。冬至の今週の冒頭には各国の基地からグリーティングカードがインターネットを介して到着し、それぞれのお国柄や基地の雰囲気がにじみ出るような写真に、我が国の昭和基地の現状を重ねて評価してみたりしたのだった。
MWFS.jpg

 さてさて、このところ引き続き語っていることに話を戻そう。目に見えない幾多のモノが勝手気ままに寄り集まったところで、どうして整然とした形をなすようなモノを築き上げてしまっているのだろう?それもあたり一面が?という私の心の内の問いは、もしかして愚にもつかない疑問の持ち方なんだろうか?そんな些細なことにとらわれているようじゃ、ごく一般の常識人を名乗ることはできませんぜ、旦那、と言われそうなことなんだろうか?そこらへんの判断もつかぬまま、しつこく小さきモノをミクロの目で追いかけてみよう。前回はわけのわからないものをわからぬまま掲載したのだが、今回は仲間の力を借りて顕微鏡を一生懸命覗き見て、何とかわけのわかる代表選手の一部を写真に撮ってみたのが下の図だ。細長い糸くず状のモノ、丸いものが数珠状につながったモノ、いくつかの丸いものが集まっているようなモノ、細長い仕切りのある部屋が連なっているモノ、このほか単独で存在する球形、ラグビーボールのようなモノなど、実に多様なモノと一緒に、不定形のあやしいものや大量の死体までもが混在している、というのは前回の復習。
tanabefig.jpg

 湖底というある場所に落ち着いたいくつもの小さな生き物が、「うーん、いい湯だな!ハハハン♫」という鼻歌を歌うかどうかは定かではないのだが(偶然にも本日6月26日は日本全国露天風呂の日ということもあって、昭和基地では極夜際の時に吹雪でできなかった露天風呂を土曜日の休日日課を利用して急遽営業、おぼろ月夜の南極の露天風呂を楽しんだのだった)、思いのほか南極にしては低温にもならず乾燥もせず、そして緩やかだが融け水がいろいろなわずかな栄養をきわめて少しずつながらも集めてくれる湖の湖底の環境が「極楽・別天地」であったことに狂喜乱舞して思うがまま増え始める。湖底を満たすまでは、それぞれ気ままな増殖を果たせるのかもしれない。やがて湖底一面、そんな気ままな生き物で満たされるようになると「なんだか窮屈な気がしない?おれたち?」とお互いの存在を感じずにはいられない状況になるのだろうか?あるものは他方を乗り越え、自らも積み重なり、下になった方はやがて日の目をみることもできず死んでしまう。もしくは先鋒をきって表面へ進出しようとしたものは太陽に向かって飛んで焼け死んでしまうイカロスのように、湖底にはない新たな環境の危険に生を失うこともあるのかもしれない。
 湖底という平面を、点ほどの存在の小さな生き物の無限に近い生が埋め尽くしてしまうようになると、やがて湖という空間を立体的に利用する方法に思い当ってしまうのだろうか?そして、ある究極の形が立ち上がる。おそらくは今、あるいはこれが築き上げられるに要する過去にさかのぼって、この場に最も「相応しい」形が、偶然に、いや必然的に出来上がってくるように思える。水深10mほどのある湖に潜って観ると、コケを交えたコケボウズの林とフキノトウのような芽生えの畑の風景が、何も湖底からは立ち上がってない平面の広がりを境界として区分けされているように見えたのだ。おそらくは境界を挟んで、小さな生き物の集合体が示す形の異なりは、現状では相互に存在場所の交換ができないなんらかの原因があることを意味しているのかもしれない。また、湖底から何も立ち上がらずに平面のまま小さな生き物で覆われている部分にしても、現状、平面である理由があるのかもしれない。それもごく小さな目に見えぬものの「集合」体としての理由が。
layer1.jpg

 平面な湖底に筒状の透明な管を差し込んで、この部分の小さなものたちを採集してみたのが上の写真だ。きれいに層状を成し、表面から内部に向かって色合いの変化がわかると思う。これを一枚一枚、ポテトチップスのようにはがして並べたものが下の写真だ。もちろん、この一つ一つの層にも、いくつもの種類の小さな生き物が、おんなじような感じのわけのわからなさ加減でまじりあっているのだ。層状に色合いも違うからといって、顕微鏡で見てみた限りにおいて、中に入っている小さなものたちの種類に大きな違いはない。
chips.jpg

 湖底から突き出した芽生えのような部分も、表面はオレンジから褐色を呈し、内部に向かって緑から脱色したような色合いをとり、そして暗色へと移行するという色合いと、多様な種類の小さなモノたちが混在しているという共通性が見られるのだ。だが、おそらくはいまだ調べきれていない「ある時は平面になったり、またあるときはこんな立体構造をとったりする」違いを創り上げている何らかの理由があるのだろうけれど。
futomaru4.jpg

「コレコレ、なにをほざいているのじゃ!その場に出来上がる形に合目性や合理性をはなっから求めるとは何と愚かな行為じゃ、まだワカラヌノカ」
「ですが、達人様…」
「そこにできた形というモノは生と死を繰り返した生き物のひとつの答えなのだゾヨ。そこに出来上がったものの声を聞き、美を感じることのみが真理に近づく道なのだ」
「とはいいますが、『ただ、存在する』ことのみならず、なにかその理由を追求するのが自然科学かと…」
「地球、あるいは宇宙ができて以来、万物は移り変わっておる。いま形あるものというモノはその時々の一瞬に表現されているものナノジャ。生き物はその時の流れの中でただ命をつなぐべく生と死を繰り返しているだけのこと。だから、当然、形には、今、存在しているもとでの意味はある。生き物はもし、最も理にかなった一つの答えを追い求めてその形を作るとしたら、その存在環境が変わったと同時に無に帰すことになるであろう?変化してきた宇宙のもとにおいて生をつないでいる生き物は決して単一の合目的な答えで存在しているわけではない。だからある時は形をとりえず、またある時は綺麗に立ち上がる形をとるとしても、その両者にはその存在場との調和が必ずやあるのジャ」
というような会話を達人様と取り交わした後、そういえば、林や森というモノも、空を飛ぶ鳥から見れば、「いろんな雑多な植物が入り混じってまとまった形を作っている構造なんだよね」と見えなくもないことに思い至った。もし森や林からその主要な植物の死体である土壌や腐葉を取り去ったら、おそらくは森や林は「森や林」として存在できなくなる可能性が高い。この意味で、死体と雑多な生き物から構築されている単位で、何か意味のある集合体になっているように思える。さらに宇宙の目で地球を眺めてみると…人間が活動し、ほかの生き物の化石や死体でコンクリートや家屋を作り、化石燃料やほかの生き物を生活利用しながら町を築き上げている姿、町の規模やスタイルは時代時代で微妙に異なりながら…なんだか、南極の湖底で生じていること、地球の上で生じている生命活動、宇宙の中で生命体が繰り広げている活動の間に、大きな違いが無いのではなかろうか、と思えてきてしまったのだった。
 うむむ、うむむ。

2010/06/20(日) 南極の湖の物語 その21

2010/06/21 7:57 日記 工藤栄

「小さきモノへ」

 月日が流れる速度というのは、おそらく人類が地球上に誕生してから不変。一日は24時間、一年は365日というように変わっていないはず(微妙に地球の自転とか公転周期が揺らぐのはあるのかもしれないけど)。だけど、自分が誕生してから現在に至るまでを考えると、時の過ぎゆく速度が年齢を重ねるごと、だんだんと短く速くなっているように感じられるということは、どうやら私だけではないようだ。大概の大人はそう思え、古から「光陰矢のごとし」と、時の流れの速さを感じて自らを律してきたが、こんな言葉を子供が自ら口にするには不自然で、ぴったりしない。このことわざ自体を使うにふさわしくなるには必然的に人生経験が必要。だから高齢になるほどふさわしいいものとなっていくと思えることから、一般論として「感覚時間」はヒトの齢とともに短くなるものらしい、という仮説を導くことができる。
 またしても、のっけから妙な書き出しではじめてしまったこのブログ。極夜の真っただ中の「冬至」に、とうとうこのタイトルの連載で20回を超えるという、なんとなく一つの「ターニング・ポイント」を迎えるまでになってしまったので、柄にもなく気取って妙に哲学的なタイトルをつけてしまったことに引っ張られてしまった。が、最後までこんなトーンが続くとは、筆者であるにもかかわらず、今回もまた保証できるものではない。極夜の空には日が登らないにもかかわらず、あやしくオレンジの光を放つ雲が見えだしてきた。地球外生命体が私を監視を始めたのだろうか?いや、これは空の成層圏付近の高いところに発生した雲が地平線の下の太陽で照らし出されてものらしい。PSC(極成層圏雲:20〜30km上空の雲)とか真珠母雲と呼ばれ、オゾン層破壊を進行させる現象にかかわりをもつとされ、最近、注目されていたりする。そんな世の中や宇宙の注目を一切気にしないで本題に入ろうかな、と思うのだ。
psc.jpg

 南極の湖底で奇妙な構造物を創り繁茂する生き物。顕微鏡で見なければわからないぐらい小さなものが寄り集まって、なにかひとつの「全体として整った」秩序ありそうな形を作る、この理屈が、あるいはその存在の意味が、何かあるようだがわからない。蜘蛛に聞いてもわからない、牛に聞いてもわからない、達人や地球外生命体も意地悪なことに教えてくれない、ワンワン、ワ、ワーンの犬のおまわりさん状態なのだ。まだ何か重要な「語りべ」の登場が必要なのかもしれない。
 しっかりした認識できる形をもつものが小さなものからできていること自体は、どこにでもあるごく普通の現象だ。自分の体をもってしても、体は手とか足、あまり使わないけど頭とかのパーツから出来上がっているし、そのパーツも骨とか筋肉、その他皮膚とか必要以上の脂肪とかからできていて、さらにはそれらはすべて細胞という小さな一区画からできている。その細胞すら、細かくするといろんな細胞小器官という細かな部品からできあがっており、それらはいずれもいろいろな元素を素材として組み合わせたモノからできている。だから小さいものから目に見える大きな秩序ある形あるものができるのは普通のことと言っていい。ただし、骨や肉、血球など見た目の形の違うモノではあるのだが、それらは「自分の細胞」という普遍的に同一といえる単位のものが、あるものは骨となり、あるものは肉となり、というように統率がとれて組みあがってできた作品と見ることができる。由来は一つの自分の細胞、それならきっとうまい具合に命令制御すれば何とか形あるものができそうな気もする。できた作品が我がままな暴君となりふるまってしまうこともままある気がするのだが、それは、かたちとしては何とか形状を保てたのかもしれないが、どこかの過程で失敗があったせいなのかも。ま、これにはここでは深く追求はしない、ことにしよう…。
micro.jpg

 湖底から草木の芽のように突き出しているものたちをとってきて顕微鏡で見てみたのが上の写真だ。見てのとおり、糸状の長いもの、小さな丸っこいもの、不定形の茶色っぽい何かが思うがままただあるようにしか見えない。こんな存在状態のモノに何か秩序めいたものを見つけることができる人がいたらすぐにでも名乗り出てきて、私に教えを授けてください。たとえば、ワカメや海苔のような目に見える大きさの葉っぱのようなもの(葉状体)を作っているものを顕微鏡で拡大してみると、実に秩序だって細胞が並び配列されている様子がわかる。一つの例として南極の夏に雪解け水などで湿地のようになるところに生えている「ナンキョクカワノリ」の拡大写真を下にしてしてみた。このように整然と配列されているなら、何か決まった形が築かれそうだ、と思えるだろう。
kawanori.jpg

 混在している細長い糸状のモノと丸っこいもの、そして不定形のなんだかわからないものが、もし、鉄筋コンクリート建築のように、糸状のモノが鉄筋のようにかたちの骨格を築き、それをくっつけ覆うように他のモノたちが配列されているのなら、複数の生き物が「麗しい」共同生活をしているのかもしれない、と思い込んで、先へと考えを進めることもできる。残念なことにそれは私にはどうあがいても思い込んでしまうことすらできる気がしない。さらに、悩ましいことに、この顕微鏡写真からは、多分生きて活動していると思えるものばかりではなく、完全に死んですっからかんになった微細な藻類の亡骸が実に多量に見つかるのだ。フキノトウの芽のように生えているもの(通称フトマル君)の内部はいくつもの種類の小さな藻類の亡骸で満たされている。芽のような構造の表面から数cmぐらい内部までには生きている複数の藻類を「かろうじて」見つけることができこそすれ、おそらく存在量としては半分以上が死体。10cmも下になると、ほとんど死体だけといってもいいぐらいなのだ。生き物は生きていればこそ秩序を創り出すことができる。死んでしまったものに秩序を維持させるような何ものかを求めるのは無理ということのような気がする。死体はただそこにあり、やがて朽ちて無に帰す、むしろ秩序だったものが壊れて無秩序化する過程にあるものであろう。
dead.jpg

 だが、もし無秩序化する過程がきわめて長く、死体が無に帰すまでに生きているモノの寿命以上を要するのなら…それは形を築く上で、何らかの基礎として有効であるばかりか、死体が壊れ分解されていくときに出てくる物質は生きたものの資源の貯蔵庫のように機能するはず。普通の環境なら生き物は死とともにきわめて速やかに分解されて物質の循環の輪の中に戻るのだが、「冷蔵庫」のような南極の湖の中では分解がゆっくりとしか進まないゆえ、死体が普通の死体以上の存在意味を持っている気がするのだ。だからと言って「死体」が「オレノ シカバネノ ウエヲ ノリコエテ イキヨ」とゾンビのごとく命じ、生きたものをコントロールして湖底に見られた整然と生えそろった畑の芽生えのようなものを作らせていると考えるよりも、やっぱり生きたモノが「お、ひとつこの上を使って、ひと山作ってみようぜ!」と寄ってたかって宝の山に群がる盗賊どものように…と考えた方が健康的な気がするのだなあ…。

 なんだか、今回はかなり理屈っぽい愚痴のような感じになってしまった。複数の生き物が寄ってたかって、ついでに死体やらわけのわからんものも寄せ集まって、あたかも「一つの個体」みたいな形をとって群生している。それは複数の生き物の協調してつくりだしたものと見ることができるのかもしれないし、ただ単にそこで生きていくうえで当然そんな形をなしえているのかもしれないし、はたまた、たまたまそんな形になってしまっているだけのこと、なのかもしれない。これの答えは、無理やりわかったようになるんじゃなくて、おそらくきっと仏教の「悟り」あるいは「大悟」の境地が必要なのかも、と思っているのでした。まる。
 次回は?悟りきれない吾輩が、苦悩の果ての何かを書くのか、あるいは思いっきり話題転換して軽ーい話にもっていくか、どちらになるかは、本人すらわからないのでした、やっぱり。

2010/06/13(日) 南極の湖の物語 その20

2010/06/13 23:17 日記 工藤栄

「ナヤマシさ、不思議さ」

 南極の湖の湖底に茂るモノ、目に見えるほど大きくしっかりとした形を作り、整然と生えそろっているのに、その実態がわからない、これは単に筆者のボンクラ頭のせいばかりではない(実はボンクラだからということを隠す方便・詭弁の恐れもあるので注意)、こんなことをウシや地球外生命体を引き合いに出して前回は語ってしまった。おかげで昨日から南極昭和基地は荒れ模様、せっかくの休日なのに基地の中に閉じこもった暮らしを余儀なくされている。土曜日の夜の食事は隊員みんなでなべ料理を囲むということが多いわが隊の食事事情なのだが、しゃぶしゃぶだったにもかかわらず、牛肉ではなく豚肉となっていた背景には、もしかしてウシ方面から何らかの「難」が申し出され、ウシ関係の供出がストップされた恐れもある。今後、さらに注意しなきゃいかん、直接の抗議行動をとられることが無いように。
myouga1.jpg

 湖底から立ち上がり、目に見えるしっかりした形のモノを作っているのは「コケボウズ」だけではない。コケボウズからはコケ+藻+顕微鏡で見ただけだとなんだかよくわかんないもの、この三者を構造物中に見いだすことができる(注意!藻はかなりの種類がいるし、わけの分かんないものはそれこそわかんないので、セイカクには三者と言ってはいけない気がするのだが、ややこしくなるので、ひと先ずこの区切りで勘弁してクダサレ)。実はこの三者が構造物をつくっているものとして、湖底から芽吹いた茗荷筍(茗荷のタケノコのような芽生え)のようなものもある。上の写真のように湖底の辺り一面、まさに茗荷畑のように生えているのだ。茗荷筍のようなものが本当にコケやアヤシイものから出来上がってくる様子は、こんな畑のような場所の中をよーく観察してみればわかる。湖底からツンツンと徒長して伸びたようなコケが、クモの巣のような何ものかに絡まって、それがなんとなくまとわりついて、茗荷の芽のようになっていく過程にあるものが見つかるのだ。クモがクモの糸を駆使して捕まえたエサをぐるぐる巻きにしちまうのなら、出来上がったぐるぐる巻きのモノはクモが作った作品ということで納得がいく。八幡巻きや恵方巻きはヒトが食べたいものを組み合わせ、鶏肉でゴボウ・人参といったものを巻いたり、海苔でご飯や魚介類を巻いて作ったものだ。いろんな材料からできていても、それを創り出そうとしたモノの主体が明確だ。ところで、このコケを絡めまとわりつかせているのは、いったい何で、だれがそんなことをしているんでしょう?実はいまだここら辺がわからない。
myouga2.jpg

 世の中には知らなきゃいけないこと、知って利益となること、得をすることもあるのだが、実は知らなくてもどうでもいいこと(知られては困ることに関してはどこかで書いた気もするので略)がはるかに多い。コケボウズや茗荷筍のようなものをまとわりつかせている物質なり、それを作り出している生き物を判別しなければならないという使命が、もし、国家事業として観測隊に与えられ、そのための予算編成が国会を通過してしまった暁には、現在の科学の進歩を考えればそれらの事柄をたちどころに白日の下にさらすことができよう。だが、こんな南極の湖底の生き物が発見され10年以上が過ぎたにも関わらず、いまだそのへんの気配すらない。一つにはそんなことはいつでもやろうと思えばできるさ、試料はすでに手に入っているし、という我々の安心感と、この先、プロジェクトを立ち上げて予算要求を…するまでもなかろうという危機感のなさから、国家的気運の盛り上がりを創り出すことに失敗していることが理由と思われる。いま一つはそれがわかったからといって、じゃあなんなのさ?という、「わかったところでどーでもよさげであること」のようで、そんなことに税金を投入して研究をすることの説明に困る「説明責任回避」的コトガラが絡んでいる気もする。給料日前にお小遣いをほぼ使い果たして釣竿を購入してしまい、週末の釣りに出かける資金獲得のため残りのお金をパチンコに投入してすっからかん、暗い気持ちで家へたどり着いたときに妻とばったり出会い、「どこに行ってたの?」と声をかけられた時のような気持ち…といえば、わかってもらえるか、どうか?
 ならば、この秘密に迫る手段はないのかといえば、残された手段として、この秘密をちょっとは面白いと思って「知ってもいいかな?知りたいな―」と思ってくれる仲間を増やすことがいいのかもしれない。ブログ読者の中にこの辺の面白さを感じ、実は構造物や組成成分の分析は「朝飯前、任せなさい!」と申し出てくれる人を、パチンコで負けて途方に暮れることができない南極で、清らかな心で精進を重ねながら祈りをささげているのである。祈りの効果かどうか定かではないが、これをここまで書きすすめたところでブリザードが吹き止んだ。よしよし、次に進めという思し召しだな。
futomaru3.jpg

 湖底から立ち上がる構造を作るモノとして「コケボウズの材料からコケを差し引きしたもの」から出来上がっているものもある。上の写真のようにフキノトウを整然と生えそろえさせた感じにも見えるモノたちで、以前、達人に「フトマル…君」と命名されていたものである。コケは、まあ、目を凝らして見れば、茎や葉の形をちゃんと認識できるぐらいの大きさのモノで、その芽が伸びてくれば数十センチメートルに達することは、日本にいても比較的ラクに、いや、真剣に探せば見つかるものである。そして、そんな大きく伸びる体に何かがまとわりついて一つの大きな形を作ってしまうということ自体は、「ああ、そんなことがあってもいいのかな?理解できるな」などと想像もしやすい。ところで、そんな構造の芯となるようなコケが無くても「藻+顕微鏡で見てもわけのわからんもの」が寄り集まってかたちを作っていることはどうだろう?十センチメートル以上も湖底から立ち上がり、芽のようなものを創り出し、そんな有象無象の寄り合いが湖底一面背ぞろいした畑のような状態を創り出しているのだ。この「藻」はまたワカメや昆布・マコモやキンギョモのような大きな姿のモノではなく、顕微鏡でなければ認識できないような、「アオミドロ」とか「アオコ」とかに代表されるような微小な藻なのである。アオミドロにしろアオコにしろ大量発生した暁には緑の浮遊物として人目につくことはあるだろうけど、寄り集まってなんかある一定の形を創るっていうワザを見せてくれることが、どっかにあるのかなあ?私の限られた人生の中ではこの南極の湖の中以外で、まだそんな場面に出会っていないのだが。
tosaka.jpg

 複数の種からなる微小な藻、そしてなんだかよくわかんないものが絡みつき合って、「ある形あるもの」を作っていること。それも一つ二つといったものじゃなくて、あたり一面おんなじようなかたちのモノを作り上げるって、ナヤマシくも不思議だなあ、と素直に思いませんか?

2010/06/07(月) 南極の湖の物語 その19

2010/06/07 28:42 日記 工藤栄

「もっとヒミツに接近か?」

 南極の湖底には、一見、プリンやケーキの「お菓子の国」さながらの世界があるぞ、と、「極夜の南極の夜長の妄想」と思われても仕方のないことを、前回は書いてしまった。こんな「なんとなくうそっぽい」ことばかり書いていると読者からは批難、達人からは苦難、神からは災難を与えられ、この先、それが見た目の真実、本当に私の周りで生じたことなのだ、と叫んでみても、書き続けて行くことに困難をきたしてしまいそうだ。このように私には「難」はいとも簡単によってたかって身の回りにかけよってくる。そしてそれらをまとわりつかせ侍らせる才能までもがあるらしい(ただし女難をのぞく)。逆に、同じようによってたかってくる称賛・絶賛・協賛・賛成多数、など「賛」関係の方面は近づいてくる気配すら察知できない。このブログは、幸いなことに読者からのコメント受付などの書き込みなどが設けられていない、南極の湖中のように静まり返った無音空間。だから、読み手の反応を気にすることなく、好き勝手に著者が思ったがまま書き綴っていける貴重な場となっている。そんな全く反響なしなのおかげで(苦情はもちろん、もしかして間接的にこのブログのせいで過食症になったという訴えや、花粉症と痴呆症の治療効果があるという報告をふくめ、そんな間接的な反響も南極までは届かない)、今のところ私は睡眠障害に陥らずに生活できている。そうなのではあるものの、書きあげて、ポチッと保存ボタンを押した瞬間、「難」関係到来の気配を感じてしまうのは、私の感覚がたぐいまれな鋭敏さを持っているという証拠か、それとも、何か後ろめたさを感じなければいけないヒミツがどこかにかくされているからなのか?
 「いやいや、モシ。お暇とご興味の際は、ちょっと立ち寄ってみてください、少しは日常世界と離れたものモノに接する入り口かもしれませぬ。ふふふ」という、つつましくもアヤシイ気持ちを秘めて書き続け、この先もこのブログを大事にしていかねば、と思うのです。あれ?どっかに避難を始めたのか、私は?
B4mossp.jpg

 さてさて、私やこのブログのヒミツではなく、件の湖に生えているヤツラ方面へ話題を持っていかねばなるまい。以前も一度この写真を出していたが今一度。道路工事の三角コーンとその形やサイズそっくりのやつらのてっぺんの部分を拡大したのが上の写真だ。何やら緑のモノが見えるだろう。読者によってはオレンジ色っぽいツンツン突き出した角のようなモノの方に目を奪われた人もいるかもしれない。緑に見える部分に目を奪われた方は愛妻家でツノ方面に意識を持って行かれた方は恐妻家…などという深層真理に基づく「性格判断」をしてもいいのだが、いやいや、やめておこう(今回はイヤイヤという繰り返し言葉が多いなあ)。緑の部分は水の中で生育しているコケの「葉」が開いた状態のモノが数多く集まっている場所なのだ。どのぐらい集まっているかというと1cm四方あたり200本以上。これはもはや隙間なくビッチリとコケの茎が、午前8時台の埼京線上り十条駅通過時点の混雑状態で詰まっているようなものだ。「おおそうなのか!そこまでの密生は凄い!」と誰か感激してくれれば幸いだ。おそらく現在の世界情勢を鑑みても、こんな「役にも立たなそうなこと」を知っているのは、私とこのブログの読者だけかもしれないのだ。70億人ぐらいいる世界のヒトの中で、ごくわずか、一握り。ブログの読者が10人に満たない場合、10本の手の指に入る人となれるってわけだ。しかし、そのことを知って記憶にとどめておくという所作は、ヒトの日常には何も役に立つことはあるまいなあ…。私だって、ついさっきまで忘れていたのだ。
 たしか7,8年前、じみーにこの三角コーンのようなもののコケの数をひとり研究室に居残って数え、論文の中に記述したっけなあ?そういえば、この論文が出るまで、南極のコヤツラの中のコケの生育密度なんてことは、世界中だれも知り得なかったことだったはずだなあ。そんなことをこのブログを書きながら思い出したのでしだ。「まあ、役に立つかどうか、今はそのことをだれも評価もできないだろうけど(この先評価される可能性は70億分の1よりはるかに小さい気がしている)、事実だけはちゃんと記述して残してやらねばなるまい。」それでいーのだ、と。世界でまだだれもやったことのないコケの茎の数について、ピンセットで一本一本拾い集めて数えたってわけ。
paper.jpg

 コケが数集まって、この形を創り出しているのか?というと、それだけではない。ビッチリとヒトをもう乗れないって言うまで詰め込んだ電車にも「足の隙間」「顔と顔の隙間」などがあるように、このコケの密生したものの中にも「意外に」隙間があるものだ。この隙間には「藻類」が野菜サンドイッチのマヨネーズのように(むむ、あまり適切じゃないかなあ?この表現)コケの茎をひっ付けている感じで存在しているのだ。さらにもう一回、先頭の写真を見てもらおう。ツンツンした角のように見える部分は、なぜか徒長してしまっているコケの茎なのだが(理由は分からないですので聞かないでください)、それをコーティングするようにオレンジ色の藻のやつらが取り付いているのである。モノの数から行くとコケの茎の数よりも藻類の個体数の方がはるかに多い、はずだ(あ、この藻類の数を数えたら、きっとまだ世界で知らないことを最初に調べ報告した人になれるぞ!)。ひとたび顕微鏡でこの三角コーンの一部をちぎってのぞいてみると、気の遠くなるような数の生き物が集まって暮らしていることに気づくのである。
 いつまでも三角コーンのようなもの、と呼ぶのに鬱陶しさを感じてきたなあ。この名前を「コケボウズ」と名付けよう、こう提案したのは、昭和基地のそばの湖でこの生き物が林立していることに気づき驚いて世の中に知らしめた私の先輩である。寒冷な湿地、根釧台地に広がる湿地などにミズゴケやスゲなど植物が集まり塔状に盛り上がるものに「谷地坊主」という名がつけられているのだが、それとの絡みで「コケ坊主」って、なったのだった。
koke.jpg

 それにしても、このコケボウズ、はたしてコケがつくった形と言っていいのかどうか?私にはいまだわかりかねている。なぜなら同じ種類のコケが、密生しながらもカーペット状になっていたり、ふさふさとした様相で生育していたりと、湖の中で必ずしも尖塔のようなかたちを作っているものばかりではないからなのだ。目に見える大きさの形を創り出している生き物がいる。それがその目に見えた形を作っている基本となっている生き物、それがコケであったとするなら、それをさして、「ああ、コケボウズね。あれはコケが南極の湖の中で示す一つの生き方なんだよねえ」みたいなことを自信を持って言い切るんだけど。はたしてコケはコケボウズの基本か?コケが形を作っているのか?と考えだすと妙な感覚にとらわれてしまうのである。この妙な違和感を他人に説明するのはちょっと難しいかもしれない。これは主に私の表現、説明力の無さゆえ。それでも…

 ひとつ例を示そう。たとえば「ウシ」というモーと鳴き草を食べ、ときに最近は狂牛病になってしまう動物がいる。この存在になにもウソはないだろう。(たとえば、このブログ読者の男性の彼女、もしくは女性読者のあなたが、いつも「もぅー」とプンプン怒って、最近ダイエットのために野菜サラダ主体の食生活をしていたが挫折、リバウンドで牛肉の焼き肉をしこたま食い続けて、狂牛病の疑いをもたれてしまった、この女性はたとえ牛と見間違うような様相になるまで成長してしまっていたとしてもウシではない…みたいなことを書き続けてしまうと、絶妙に面白そうだが、シコタマうそっぽくなる。)そこへ、ウシなど地球型生命体を見たことが無かった地球外の高度文明をもった生命体が地球探検に来た(ウソっぽさを宇宙空間まで広げちまうと、なぜか許せてしまえるものだ)。動くモーと鳴くモノに出会った(あなたのことではない)。何だこれは?と思い、サンプルとしてウシを捕獲して調べてみることにした。ひょんな興味から、この動くものはどんなもので作られているのだろう?と、地球的科学の常識なら骨格とか筋肉とか組織とか器官を調べるところを、異星人たちの科学的手法の主流は、まず、体全体から見つかる生き物の種類を調べることだったのだ。ウシの腸内にはおびただしい数の腸内細菌が見つかるはずである。原生動物もうじゃうじゃ見つかる。この異星人はこの地球でウシと呼ばれるモノは大部分が一系統の遺伝子情報を持つ牛本来の細胞から構築されるが、そのほかきわめて多様で異質な遺伝子情報をもつ生き物が、数の上ではどちらが多いかわかんないぐらい見つかる、という事実を掴んで驚愕するわけだ。はたしてどちらがこのモーと鳴くモノを「ウシ」として存在させているのだろうか?なーんて。地球外生命体、悩まないかなあ?なんて愚にもつかない心配をしてしまうのだ。
 しかしウシはウシだけの遺伝情報で腸内細菌なしにも存在できるのだろうから、あの動いてモーと鳴く大きな動物は「牛」と呼んでいい気がするけれど(たとえば牛が間違って正露丸を食べてしまうと、腸内細菌が全滅しちゃうかもしれないけど、ウシはモーと鳴き草を食べて生きていることができる、みたいな実験で実証可能…)、「コケボウズ」はコケだけで存在していないし、コケ以外のモノを取り去るとコケボウズとして存在しえない。単なる密生したコケとなってしまう気がするわけで…。こんな感じだから、「ああ、あれはコケ」なんだよね、と、目にみえる立派な大きさの形を作っているモノに対して、断言することのできないということに、イラダタシサや「違和感」を感じちゃうわけなのです。感じてきたでしょ?

 ううう、妙な例示のせいで、地球外生命体からも難を与えられそうな気までしてきたのだ。この辺でやめておけばいい気もするが、実は次回も、もう少し、違和感に付き合っていただく人を募集したいのだった。では、また。

2010/06/01(火) 南極の湖の物語 その18

2010/06/01 27:23 日記 工藤栄

「藻原のヒミツ?」
 前回は南極の湖底にはいろんな形の何ものかがニョキニョキ生えているきわめてアヤシイ世界で、しかもその湖底自体は立つこともできないほど底なし沼化したものなのだ、というイメージをブログの読者に伝えたかもしれない。ところで、人生の達人的モノの見方によってはメルヘンの「お菓子の世界」が広がっていると、とらえられなくもない、とも書いた気もする。今回はそんな人生の達人の感性を通じて、これらの様々な形を示す生き物に、もう少しクローズアップしてみよう、と思いついてしまった。
koritsu.jpg

 とある湖へ潜水降下し、湖の中央部に広がる平坦な最深部へたどり着く。上の写真のように、わずかな突起がみえる緑の平原の広がりのところどころから尖塔のようなものが立ち上がっている。青く透明な水の広がりの中、そのものは青緑色を帯びたブロンズの彫像のようでもある。凛とした姿でひとりたたずむ姿は、いかにも「沈黙」が似合う。動いているものは潜水をしている自分だけ。ふと、水面をみあげると、風の引き起こした波紋で太陽の光が風で揺れるカーテンのようにたなびき輝いている。その中を自分の吐きだしたエアが無数に輝きながら上昇している。
沈黙→落ち着き→大人のシブさ→高倉健方面へ思考をめぐらしながら、ひととおりこれらの生き物のサンプルを採集して、
「ふふ、ミッション完遂、だな…」
と静かな満足感を心に抱いて岸辺へ帰り着く。
 と、そこでは湖底から引き揚げられたサンプルを手にした達人たちが、周囲の山々にこだまして轟くペンギンのオタケビにも似た嬌声をあげながらなにやら盛り上がっているではないか。
「うわー、このプルプル感、ぎりぎり固まったプリンみたい、たまんなーい!」
「このマーブルケーキみたいな、縞々、美味しそー(顔を近づける)!あ、ゲッ、何このくっさい臭いは―?だめだめ、プンプン!」
「こっちはミルフィーユみたいじゃない?あー、もーしばらく食べてないなー、ケーキ。誰か美味しいの作ってくれないかなあー」
「おお、これは!タルトケーキっぽいではないですか!」
「チーズケーキっぽいのもあるよ!どっちが好き?」
どうやら達人たちには沈黙は似合わないようである。
crispy.jpg

まあ、にぎやかなことこの上ないが、確かに水の中から引き揚げた湖底の試料は、水中で見えていた青緑っぽさが全くなくなり、黄色やオレンジ色の鮮やかな色合いで(以前、湖の中に入りこむ光のことを紹介した際に、水の中では長い波長の赤っぽい光は吸収されるから深くには届かないんだよ、って書いたことを覚えているだろうか?地上で赤やオレンジ色に見えるものをその波長の光が無い世界においた場合、それらの色を認識することができないのだよ)、その手触りといい、固さといい、南極では久しく見ることが無かった(南極での野外調査は基本的にキャンプ生活なので、よっぽどのことが無いとケーキは食料として持ってきてはいないのだ)高級洋菓子にそっくりなものが、いろんな湖沼を調査していくにつれ、次々と見つかってくるのだ(なんだかカッコつきの説明文の方が長くって読みにくいがご勘弁を)。ビスケットのような固さのものから、シフォンケーキのようなスポンジ状のもの、チョコフレークを固めたようなものまで、いろんなものがある。達人たちの欲望が集団幻覚を引き起こさせたか、はたまた、湖底の世界に奇跡までをも生じさせたのか?
miruf.jpg

とある湖の調査をしていたときのこと。ボートの上からのぞき眼鏡で、周辺とはちょっと雰囲気の違った湖底を発見したのである。このときには、我々には確固とした目的があった。オレンジ色のスポンジケーキをちょっとばかりおやつにしようと、いやいや、スポンジ様の生き物を実験材料にしようと、湖底からニョキニョキ生えている道路工事の三角コーンのようなものが立ち並ぶ隙間の平坦地に採集道具を操りおろそうとして、ボートの上から湖底の様子を目を皿のようにして観察していたのである。そんなときに、
「あ、クドさん。この下に、なんかもっのすごっくワルそうな、チャボウズ君がいるんですが、とってみましょかね?」
「(…極悪の茶坊主君だって?ってまた、いつものようにへなちょこなネーミング、しやがったなあ…)え、どこだい?いいよ、とにかくとってみるとするかね?ん、じゃ、ボートを誘導してくれたまえ」
ちなみにこの達人はつい先日「フトマルミニトサカ」なる名前を、下の写真にある湖底から5〜10cmほどの突起を作って立ち上がっているオレンジ色の物体に命名したばかりである。太くてまるくて小さくてとさかのようなものだから、って、見たままの印象を羅列したようなのだが、日本語と英語交じりの命名はいかにも現代に生きる若者らしい名づけ方、なのだな。このほかにも、ミニマル君、ニキビちゃんなど、お菓子系統「食欲派」の命名ばかりではなく、達人は「印象派」の命名も得意とするところであるのだ。ともかく、指示に従って、私は従順にボートを細かく操船することにしたのだった。
Futomakuro.jpg

「あいよー!もっと右、はい、そのまんま停止!うんしょ(採集器を下ろす気合の掛け声)。ターゲット、ロックオン!死ねー!!」
「バスッ(と試料採集器が閉じる音)」
と、傍で聞いていると何とも物騒な言葉まで発するほど、達人は夢中にそして真剣に試料を採集したのであった。達人の気合のこもった発声がおわって、ようやく緊張が解けた私はボートをこぐ手を休めて水中をみた。確実に水深4m下のターゲットのど真ん中を採集器が貫いている。完璧。この先絶対に達人に恨まれるようなことをしないほうが身のため、恨まれたら命がいくつあっても足りなそうだとの恐れをいだきながら、取り急ぎ試料を引き上げて、湖岸へとボートを漕ぐのであった。
orange.jpg

 湖岸でボートから機材と、今さっき確保した試料を積み下ろして間もなく、達人はやにわに採集器の中に入っている試料を真っ白なトレー(お盆)の上にとりだしたときのこと、
「ほょー(ドクタースランプのアラレちゃんの驚きの声を10倍ぐらい強烈にした感じ)!!!!」
「どしたの?おお、これは…」
上の写真、どう見てもオレンジゼリーをとろーりとかけたデザートっぽいお菓子にみえませんか?半透明のゼラチンのようなプルンプルンのオレンジコーティングが美しい、ナニモノカなのである。触った感じもまったく上質なゼリーって感じ。これって、本当に生き物なのか?生き物としては見たことが無いけど、おなじみのモノのような…という驚きよりも、その何というか、正直、甘酸っぱいデザートを前にした時の幸福感のようなものを達人は表情に浮かべているではありませんか。
「ちょっと、誘惑されちゃいますねえ…食べてみませんか?…(無味)むむ、甘くも酸っぱくもないのですねえ」
「おいしそうなんですけどねー」
注意してほしい。生物学者はいろんな場面で五感を通じ、自分の対象を観察するという性癖があるのだ。上の会話や行動は、何も特別に脚色したものではなく、ごくフツーに私の周りでは交わされているものである。いずれまた近いうちに別のおいしそうに見える南極の湖のモノを紹介することもあるので、この辺のことは覚えておいてほしい。ちなみに、これまでここに写真であげたモノ、チーズケーキのようなものにしろチョコフレークにしろ、ミルフィーユにしろ、タルトにしろ、その味覚は、何といいますか、全く味わいにかけているわけでして(達人たちの厳命で私は事細かに食味をチェックさせられていたのだ、無言の圧力ゆえ自発的な行動をとらされていたのだが)、この辺のものを大量に採集し、ひとつ南極特産品としてひと儲けしてやろうじゃないのさ、という目論見は全く成り立たないのですな。補足までに、まだ、私は死んではいないことから、これらはモーレツな毒を持っているものではなさそうだ、ということは身をもって証明できた気はしている。このことはきっと正しく人類に貢献できたこと、と自負したくなってきた。

さて、まとめてみよう。湖底にはなんだかアヤシイ形をしたものがわんさかいるらしい。そしてそれらは取り上げてみると、目にも鮮やかな色合いのお菓子のようなものであった(おいしくないけど)。こんな知識として役にたつかどうか全くわからないようなことを、不覚にも達人たちの念に押されて書いてしまった。はたしてこんな説明で終始していいのだろうか?かなり不安が増してきたところで、今回は無理やりおしまいとしてしまうのだ。

とうとう一日中太陽が昇らなくなってしまった南極昭和基地。闇に支配され情緒不安定になりがちなこの季節、真実に迫るような次回の展開ができるかどうかは、全く定かではない…。