▼ 2010/07/03(土) 南極の湖の物語 その23
「極夜のむこう」
うむむ、困ったことになった。このブログの反響は南極の湖の無音空間のごとし、と思ってノホホンとして暮らしていたら、我が内の隊員の中から
「隊長のブログ、あのままでいいんですか?隊長の人格、知っている人なら(あきらめるから)いいかもしれませんけど、誤解されたり困ったことになりませんか?少なくとも我々が」
というような指摘を、昭和基地のバーの営業日の開店前のすれ違いざまに、フテキな微笑みをたたえながら囁かれたのだった。
この状況を一般読者が理解するためには昭和基地のスタンダードな生活風景をちょっとだけ解説しなければなるまい。基地生活は「日本での生活習慣に近い日常をできる限り実現させ、極限隔離社会でのストレスを軽減させるような努力もしつつ、ただし24時間誰かしら勤務して基地観測も続けているのである(28人で生きていくすべてをまかなうんだから、普通の生活を支えるコト、それ自身、フツウの状況ではない気もするのだが…)。」したがって必要に応じて係・コミュニティーを創り出して「日常生活の楽しみまでを」自ら積極的に作り出しながら(ただしその経済効果や報酬は金銭的なものは一切なく、そこで生活している人の喜びだけという原始社会なのだ)暮らしているのだ。日本社会で平均的な大人の年齢である隊員たちにとって週3回、2時間だけ営業される「Bar(バー)」は(料金は請求されず、きわめて相互福祉的なホスト+αがいることもある)、憩いでありくつろぎの空間なのだ。そんな時として異次元空間にもなる時間帯に入ろうとした時のことの出来事。
「最近ちょっと、哲学的なことをムズカシク書きすぎて、読者を(いるのだろうか?)置き去りにしそうになっちまったかなあ…」
「そうじゃなくって(そんなことは一切書いていないでしょうに…まったく…)、もっとちゃんと隊長らしい、科学者らしいまともなことを書いてくれなきゃ、我々隊員が、底なし沼やETやら、ウシやタツジンやクモや埼京線の混雑に翻弄されちまっているタイチョウのもとで暮らしていることが家族に発覚すると…シクシク」
「えっ(絶句)!」
そうなのかもしれない。本人がいたってまじめに紳士的に南極の湖にかかわる「物語」を書き連ね、自らの心の赴くまま正直に、「自分の心の中に映し出されている世界」を紹介しようと思っている純真さから始めたブログの内容を、今、改めてみて読み返してみると、実に「変なヒト」が無知をさらけ出して偏屈に書き続けて来たのだという事実に気づいたのである。瞬時に深く反省してしまったのであった。隊員すべてとその支えてくれている家族に絶対的安心を与えてこそ、それが隊長の職務というモノではないか!それが私はできていたのかと…。
とは言え、この書き連ねた事柄のすべてからワタクシの人格を判断されて困る事態には、ここ南極にいる限り、なりようが無い(本人は)。むしろそう判断される人格の方が本人以上にシッカリした大人の完璧さを兼ね備えている気もする…。ううむ、どうしたらよいものか?「ご家族の皆さん、少なくとも隊長よりも隊員の諸子・諸兄・諸妹はしっかりした人格なので、わたくしがこうしたカタヨッタ南極の姿を、眼鏡越しに語ることが許されているわけでありまして…」弁解、弁解。

さて(話題転換の接続詞)、そうではあるのだが、あと10日足らずで太陽が戻ってきてくれるのだ。越冬隊のメンバーにとっては、ここまでが準備期間(身も心も資材も環境も)で、これからが「真の南極観測」に動き回ることができる季節の到来なのだ!ここまで、もちろん基地での連綿としたデータを欠かすことなく連日取得している隊員、機会あるごとに厳しい厳冬下で野外での活動を繰り返しもしてきた隊員なのだが、太陽の再来とともにやってくる「躍動の季節」はオリンピックやワールドカップなどのスポーツ競技会と日常のトレーニング・アスレチッククラブ活動・町内会の運動会・地区予選ぐらいの違いがあるのだ。そんな季節にぜひ訪れてみたいのが上の写真の場所。昭和基地から実移動距離で100kmまではないだろうけれど、雪上車で1日がかりで海の上を走りたどり着く露岩地帯のひとつ「スカーレン」と「スカルビックハルゼン」という名前の場所。ここにはもちろん、わが調査対象の綺麗な湖があるし、地磁気の観測や地学調査の機器が設置されてもいる場所の一つでもある。キャンプ地の眼前には南極大陸の氷河が山を乗り越えて海へと落ちる「氷瀑(ひょうばく、氷の滝)」もあり南極らしさ満点の場所でもある。ただしここまで雪上車キャラバンを率いてたどり着くには、おそらくは「芋虫・尺取虫」のごとく海の氷の上を安全な「ルート」を探りながら進まなければならないので、一気にその場を目指したとしても1週間ほどを要する作業が必要。その途中にも観測ポイントが点在し、要所要所にアクセスルートや補助ルートを作っていくので、ルートができてしまえば一日で到達できる距離とはいえ、なかなかたどりつけないというのが実情なのだ。こんな「単に目的地へたどり着く」という地道な作業でさえ、荘厳で雄大な南極の風景(天候が良ければ)、過酷で困難を極める難所(天候が崩れ始めてしまえば)を体感しながらという「オプショナル・ツアー」がもれなくついてくる。このへんの様子はこの先実際の活動が開始した折に、詳しく語っていこうと思う。

湖畔に立ち何やら腕組みをしながら足元の「ナニモノ」かについて考えている女性隊員。これは夏のスカーレンにある湖畔の風景なのだが、湖岸一帯に妙なものが大量に打ち上げられているのが見てわかるであろう。もう少し近づいてみたのが下の写真。茶色や緑の入り混じった丸みを帯びた浮遊物なのだ。色といい形といい「コロッケ」あるいはおでんの中の「さつま揚げ」や煮汁を吸いすぎた「はんぺん」、千切れて砕けたものは天麩羅鍋に残った「天かす」状のものといった様相のもの。南極の湖の女神たちが夏到来を祝して大宴会に興じたのか?

手に取りタッパウエアーの中に入れると食品らしさが余計に漂うのだけれど、これは、長いことこのブログで取り上げてきた「湖底を覆って繁殖している小さな藻の集合体」が、湖底から離脱し、湖面へ浮かんできたものなのである。こんな現象は、湖によって規模の違いはあるものの、かなり普通に見出せることである。このスカーレンにある湖では、そんな浮遊した藻の塊がかなり大量に見つかり、かつ、コロッケのように丸みを帯びて外側が「綺麗に茶褐色」を呈しているのである。ここの湖ではないけれど、湖底を覆ったカーペット状の藻が、寝相が悪くって乱れ起き上がってしまったシーツのようにはがれあがっている様子や、突起を伴った湖底の藻(通称フトマル君)が板状に半畳分ほどのサイズではがれて浮遊しているものを見かけたこともある。湖底を(集団)生活の場としているのなら、そこにとどまっていればいいように思えるのだが、込み合い混雑に嫌気がさして「緊急離脱(エマージェンシー・リフト・オフ)!」という合議が採択されたのだろうか?それとも湖底の「地上げ屋」が出現、恫喝されて泣く泣く住み慣れた安住の湖底を離れることになってしまっているのだろうか?

湖底から離れること→マイナスイメージのような書き方をしたのだが、こう書いたのは理由がある。湖面に浮いている塊の活動状況を、植物の光合成の大きさということで調べてみると、湖底にいる時よりもはるかに小さいのである。場合によっては「まったく光合成反応ナシ」ということもある。湖底よりも湖面の方が太陽の光をたくさん受け止められるからいっぱい光合成ができてもよさそうなのだが、そういうことが許されない状況のようなのだ。浮かび上がった塊が湖底にある時よりも茶色みを増しているところをみると、どうも湖面は光が強すぎると感じているようなのだ。隊員たちが夏の時期に光の防護を怠ったたら、かなり速やかに「日焼け・紫外線焼け」を経験し、真っ赤にはれあがった顔の「たこ焼き人間」→ボロボロ皮膚がズルズルむける「ジャガイモ人間」→愛らしい口元が極度に強調される「たらこクチビル人間」を経てやがて1週間後には「国籍不明の疑似黒人化」という進化を遂げることからも、湖面には確実に生き物には強すぎる紫外線が降り注いでいる事実と実態を推察できるのだ。そんな危険な場所に彼らは積極的に移っていくものだろうか?そんな疑念からのマイナスイメージなのである。

だがしかし、一方の湖底は大量の藻たちが表面を完璧に厚く覆いつくしてしまっているのだ。積み重なって下になってしまえば光の届かぬ世界ゆえ、藻たちは光合成をすることはできまい。湖底から立ち上がって3次元的に使えば生活空間が増えるのは理屈。こうして藻たちの集合構造物が機能しているのかもしれないのだが、それは偶然なのか必然なのかは不明。生活空間がいっぱいになってもなお増えようとする藻たちは立ち上がったついでに、なんかの拍子に?湖底から離脱してしまうこともあるのだろう。これには見方によれば「新陳代謝」のように湖底のお肌を若く健康に保つ効果が期待できる。そのままでは活動できない湖底の生活空間に隙間ができるからね。離脱し浮遊する藻の塊は瞬時に全滅するわけでもなかろうから、湖面に浮きあがったあと、「別のすみ場所」に沈み、あるいは流れ、あるいは飛んで逢着する可能性はゼロではなかろう。これは生き物が自らの生を保てる場所を、限りなくゼロに近い状況でもなお、探し求めながら生をつなぎ続けようとする本能のようなものかもしれない。また、湖という中の世界で作られた藻が湖岸に漂着した後に結局は生き物としての生は失われてしまうとしても、湖岸周辺やそれらが吹き飛ばされて移動した先へ物質を移動させる流通手段としての機能を果たすはずである。
生き物はおそらくただひたむきに生きているだけ。その姿や結果に調和や意味を感じ見つけるのは「人間臭い」所作、あるいは特権なのかも。
人間はいろいろ四苦八苦してほかの生き物とは一線を画したような活動を地球の上で繰り広げているような気になっているところもあるように思うけれど、宇宙の視点に立ってみると、やっぱり「生き物」としてのふるまいから外れたものにはなりえていないし、そうはできるものではないと思うのだが、いかがだろう?湖という「宇宙」が語りかけてくれる物語は、この先、まだまだ著者の視点や思いつき、性格性質人格人生の変化を伴って続けられてしまうのである。うふふふふ。
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