▼ 2010/06/26(土) 南極の湖の物語 その22
「ミクロの目、ウの目タカの目、宇宙の目」
目に見えない小さな生き物たちが寄り集まってある一つのしっかりした形のモノを一面に築き上げている世界が、南極の湖の中にはあるのだ、こんなことを語っていたら、いつの間にか極夜の真っただ中が過ぎて行ってしまった。太陽が登ってくるまでにあと20日を切ったところだが、このところ天気がいいせいか、すでに昭和基地の周辺は明るさを増し、春が近づいてきた気配すら感じられる。もっとも、太陽が戻ってきたとしても、寒さが一段と厳しくなるのが7〜8月だから「名のみの春」とも言えるのだけれど。ところで、湖の中は?といえば、こんな地上の極寒の気温とは裏腹に、水が凍らない限りは「あんまし関係ないのよ、ワタシたち」という小さきものが、適度の光の到達を歓喜し、おそらくは「さあて、今年も精いっぱい増えてやるかな、おい」と、やにわに活動をし始めるのだと思う。

ところで、南極の極夜の真っただ中の「冬至」の時には南極探検の始まり当初から「極夜祭」を催して、日も登らないつらく厳しい時期を乗り切ろうと意気向上を計らうという伝統がある。我が日本の昭和基地もしかり。真の現役「南極料理人」である二人の調理隊員がいつも以上に腕をふるってフルコース料理をふるまってくれたり、ゲームや演芸、スポーツ大会で仲間どうしの絆を深めあったのだった。冬至の今週の冒頭には各国の基地からグリーティングカードがインターネットを介して到着し、それぞれのお国柄や基地の雰囲気がにじみ出るような写真に、我が国の昭和基地の現状を重ねて評価してみたりしたのだった。

さてさて、このところ引き続き語っていることに話を戻そう。目に見えない幾多のモノが勝手気ままに寄り集まったところで、どうして整然とした形をなすようなモノを築き上げてしまっているのだろう?それもあたり一面が?という私の心の内の問いは、もしかして愚にもつかない疑問の持ち方なんだろうか?そんな些細なことにとらわれているようじゃ、ごく一般の常識人を名乗ることはできませんぜ、旦那、と言われそうなことなんだろうか?そこらへんの判断もつかぬまま、しつこく小さきモノをミクロの目で追いかけてみよう。前回はわけのわからないものをわからぬまま掲載したのだが、今回は仲間の力を借りて顕微鏡を一生懸命覗き見て、何とかわけのわかる代表選手の一部を写真に撮ってみたのが下の図だ。細長い糸くず状のモノ、丸いものが数珠状につながったモノ、いくつかの丸いものが集まっているようなモノ、細長い仕切りのある部屋が連なっているモノ、このほか単独で存在する球形、ラグビーボールのようなモノなど、実に多様なモノと一緒に、不定形のあやしいものや大量の死体までもが混在している、というのは前回の復習。

湖底というある場所に落ち着いたいくつもの小さな生き物が、「うーん、いい湯だな!ハハハン♫」という鼻歌を歌うかどうかは定かではないのだが(偶然にも本日6月26日は日本全国露天風呂の日ということもあって、昭和基地では極夜際の時に吹雪でできなかった露天風呂を土曜日の休日日課を利用して急遽営業、おぼろ月夜の南極の露天風呂を楽しんだのだった)、思いのほか南極にしては低温にもならず乾燥もせず、そして緩やかだが融け水がいろいろなわずかな栄養をきわめて少しずつながらも集めてくれる湖の湖底の環境が「極楽・別天地」であったことに狂喜乱舞して思うがまま増え始める。湖底を満たすまでは、それぞれ気ままな増殖を果たせるのかもしれない。やがて湖底一面、そんな気ままな生き物で満たされるようになると「なんだか窮屈な気がしない?おれたち?」とお互いの存在を感じずにはいられない状況になるのだろうか?あるものは他方を乗り越え、自らも積み重なり、下になった方はやがて日の目をみることもできず死んでしまう。もしくは先鋒をきって表面へ進出しようとしたものは太陽に向かって飛んで焼け死んでしまうイカロスのように、湖底にはない新たな環境の危険に生を失うこともあるのかもしれない。
湖底という平面を、点ほどの存在の小さな生き物の無限に近い生が埋め尽くしてしまうようになると、やがて湖という空間を立体的に利用する方法に思い当ってしまうのだろうか?そして、ある究極の形が立ち上がる。おそらくは今、あるいはこれが築き上げられるに要する過去にさかのぼって、この場に最も「相応しい」形が、偶然に、いや必然的に出来上がってくるように思える。水深10mほどのある湖に潜って観ると、コケを交えたコケボウズの林とフキノトウのような芽生えの畑の風景が、何も湖底からは立ち上がってない平面の広がりを境界として区分けされているように見えたのだ。おそらくは境界を挟んで、小さな生き物の集合体が示す形の異なりは、現状では相互に存在場所の交換ができないなんらかの原因があることを意味しているのかもしれない。また、湖底から何も立ち上がらずに平面のまま小さな生き物で覆われている部分にしても、現状、平面である理由があるのかもしれない。それもごく小さな目に見えぬものの「集合」体としての理由が。

平面な湖底に筒状の透明な管を差し込んで、この部分の小さなものたちを採集してみたのが上の写真だ。きれいに層状を成し、表面から内部に向かって色合いの変化がわかると思う。これを一枚一枚、ポテトチップスのようにはがして並べたものが下の写真だ。もちろん、この一つ一つの層にも、いくつもの種類の小さな生き物が、おんなじような感じのわけのわからなさ加減でまじりあっているのだ。層状に色合いも違うからといって、顕微鏡で見てみた限りにおいて、中に入っている小さなものたちの種類に大きな違いはない。

湖底から突き出した芽生えのような部分も、表面はオレンジから褐色を呈し、内部に向かって緑から脱色したような色合いをとり、そして暗色へと移行するという色合いと、多様な種類の小さなモノたちが混在しているという共通性が見られるのだ。だが、おそらくはいまだ調べきれていない「ある時は平面になったり、またあるときはこんな立体構造をとったりする」違いを創り上げている何らかの理由があるのだろうけれど。

「コレコレ、なにをほざいているのじゃ!その場に出来上がる形に合目性や合理性をはなっから求めるとは何と愚かな行為じゃ、まだワカラヌノカ」
「ですが、達人様…」
「そこにできた形というモノは生と死を繰り返した生き物のひとつの答えなのだゾヨ。そこに出来上がったものの声を聞き、美を感じることのみが真理に近づく道なのだ」
「とはいいますが、『ただ、存在する』ことのみならず、なにかその理由を追求するのが自然科学かと…」
「地球、あるいは宇宙ができて以来、万物は移り変わっておる。いま形あるものというモノはその時々の一瞬に表現されているものナノジャ。生き物はその時の流れの中でただ命をつなぐべく生と死を繰り返しているだけのこと。だから、当然、形には、今、存在しているもとでの意味はある。生き物はもし、最も理にかなった一つの答えを追い求めてその形を作るとしたら、その存在環境が変わったと同時に無に帰すことになるであろう?変化してきた宇宙のもとにおいて生をつないでいる生き物は決して単一の合目的な答えで存在しているわけではない。だからある時は形をとりえず、またある時は綺麗に立ち上がる形をとるとしても、その両者にはその存在場との調和が必ずやあるのジャ」
というような会話を達人様と取り交わした後、そういえば、林や森というモノも、空を飛ぶ鳥から見れば、「いろんな雑多な植物が入り混じってまとまった形を作っている構造なんだよね」と見えなくもないことに思い至った。もし森や林からその主要な植物の死体である土壌や腐葉を取り去ったら、おそらくは森や林は「森や林」として存在できなくなる可能性が高い。この意味で、死体と雑多な生き物から構築されている単位で、何か意味のある集合体になっているように思える。さらに宇宙の目で地球を眺めてみると…人間が活動し、ほかの生き物の化石や死体でコンクリートや家屋を作り、化石燃料やほかの生き物を生活利用しながら町を築き上げている姿、町の規模やスタイルは時代時代で微妙に異なりながら…なんだか、南極の湖底で生じていること、地球の上で生じている生命活動、宇宙の中で生命体が繰り広げている活動の間に、大きな違いが無いのではなかろうか、と思えてきてしまったのだった。
うむむ、うむむ。
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