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南極ブログ通信

2010/06/20(日) 南極の湖の物語 その21

2010/06/21 7:57 日記 工藤栄

「小さきモノへ」

 月日が流れる速度というのは、おそらく人類が地球上に誕生してから不変。一日は24時間、一年は365日というように変わっていないはず(微妙に地球の自転とか公転周期が揺らぐのはあるのかもしれないけど)。だけど、自分が誕生してから現在に至るまでを考えると、時の過ぎゆく速度が年齢を重ねるごと、だんだんと短く速くなっているように感じられるということは、どうやら私だけではないようだ。大概の大人はそう思え、古から「光陰矢のごとし」と、時の流れの速さを感じて自らを律してきたが、こんな言葉を子供が自ら口にするには不自然で、ぴったりしない。このことわざ自体を使うにふさわしくなるには必然的に人生経験が必要。だから高齢になるほどふさわしいいものとなっていくと思えることから、一般論として「感覚時間」はヒトの齢とともに短くなるものらしい、という仮説を導くことができる。
 またしても、のっけから妙な書き出しではじめてしまったこのブログ。極夜の真っただ中の「冬至」に、とうとうこのタイトルの連載で20回を超えるという、なんとなく一つの「ターニング・ポイント」を迎えるまでになってしまったので、柄にもなく気取って妙に哲学的なタイトルをつけてしまったことに引っ張られてしまった。が、最後までこんなトーンが続くとは、筆者であるにもかかわらず、今回もまた保証できるものではない。極夜の空には日が登らないにもかかわらず、あやしくオレンジの光を放つ雲が見えだしてきた。地球外生命体が私を監視を始めたのだろうか?いや、これは空の成層圏付近の高いところに発生した雲が地平線の下の太陽で照らし出されてものらしい。PSC(極成層圏雲:20〜30km上空の雲)とか真珠母雲と呼ばれ、オゾン層破壊を進行させる現象にかかわりをもつとされ、最近、注目されていたりする。そんな世の中や宇宙の注目を一切気にしないで本題に入ろうかな、と思うのだ。
psc.jpg

 南極の湖底で奇妙な構造物を創り繁茂する生き物。顕微鏡で見なければわからないぐらい小さなものが寄り集まって、なにかひとつの「全体として整った」秩序ありそうな形を作る、この理屈が、あるいはその存在の意味が、何かあるようだがわからない。蜘蛛に聞いてもわからない、牛に聞いてもわからない、達人や地球外生命体も意地悪なことに教えてくれない、ワンワン、ワ、ワーンの犬のおまわりさん状態なのだ。まだ何か重要な「語りべ」の登場が必要なのかもしれない。
 しっかりした認識できる形をもつものが小さなものからできていること自体は、どこにでもあるごく普通の現象だ。自分の体をもってしても、体は手とか足、あまり使わないけど頭とかのパーツから出来上がっているし、そのパーツも骨とか筋肉、その他皮膚とか必要以上の脂肪とかからできていて、さらにはそれらはすべて細胞という小さな一区画からできている。その細胞すら、細かくするといろんな細胞小器官という細かな部品からできあがっており、それらはいずれもいろいろな元素を素材として組み合わせたモノからできている。だから小さいものから目に見える大きな秩序ある形あるものができるのは普通のことと言っていい。ただし、骨や肉、血球など見た目の形の違うモノではあるのだが、それらは「自分の細胞」という普遍的に同一といえる単位のものが、あるものは骨となり、あるものは肉となり、というように統率がとれて組みあがってできた作品と見ることができる。由来は一つの自分の細胞、それならきっとうまい具合に命令制御すれば何とか形あるものができそうな気もする。できた作品が我がままな暴君となりふるまってしまうこともままある気がするのだが、それは、かたちとしては何とか形状を保てたのかもしれないが、どこかの過程で失敗があったせいなのかも。ま、これにはここでは深く追求はしない、ことにしよう…。
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 湖底から草木の芽のように突き出しているものたちをとってきて顕微鏡で見てみたのが上の写真だ。見てのとおり、糸状の長いもの、小さな丸っこいもの、不定形の茶色っぽい何かが思うがままただあるようにしか見えない。こんな存在状態のモノに何か秩序めいたものを見つけることができる人がいたらすぐにでも名乗り出てきて、私に教えを授けてください。たとえば、ワカメや海苔のような目に見える大きさの葉っぱのようなもの(葉状体)を作っているものを顕微鏡で拡大してみると、実に秩序だって細胞が並び配列されている様子がわかる。一つの例として南極の夏に雪解け水などで湿地のようになるところに生えている「ナンキョクカワノリ」の拡大写真を下にしてしてみた。このように整然と配列されているなら、何か決まった形が築かれそうだ、と思えるだろう。
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 混在している細長い糸状のモノと丸っこいもの、そして不定形のなんだかわからないものが、もし、鉄筋コンクリート建築のように、糸状のモノが鉄筋のようにかたちの骨格を築き、それをくっつけ覆うように他のモノたちが配列されているのなら、複数の生き物が「麗しい」共同生活をしているのかもしれない、と思い込んで、先へと考えを進めることもできる。残念なことにそれは私にはどうあがいても思い込んでしまうことすらできる気がしない。さらに、悩ましいことに、この顕微鏡写真からは、多分生きて活動していると思えるものばかりではなく、完全に死んですっからかんになった微細な藻類の亡骸が実に多量に見つかるのだ。フキノトウの芽のように生えているもの(通称フトマル君)の内部はいくつもの種類の小さな藻類の亡骸で満たされている。芽のような構造の表面から数cmぐらい内部までには生きている複数の藻類を「かろうじて」見つけることができこそすれ、おそらく存在量としては半分以上が死体。10cmも下になると、ほとんど死体だけといってもいいぐらいなのだ。生き物は生きていればこそ秩序を創り出すことができる。死んでしまったものに秩序を維持させるような何ものかを求めるのは無理ということのような気がする。死体はただそこにあり、やがて朽ちて無に帰す、むしろ秩序だったものが壊れて無秩序化する過程にあるものであろう。
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 だが、もし無秩序化する過程がきわめて長く、死体が無に帰すまでに生きているモノの寿命以上を要するのなら…それは形を築く上で、何らかの基礎として有効であるばかりか、死体が壊れ分解されていくときに出てくる物質は生きたものの資源の貯蔵庫のように機能するはず。普通の環境なら生き物は死とともにきわめて速やかに分解されて物質の循環の輪の中に戻るのだが、「冷蔵庫」のような南極の湖の中では分解がゆっくりとしか進まないゆえ、死体が普通の死体以上の存在意味を持っている気がするのだ。だからと言って「死体」が「オレノ シカバネノ ウエヲ ノリコエテ イキヨ」とゾンビのごとく命じ、生きたものをコントロールして湖底に見られた整然と生えそろった畑の芽生えのようなものを作らせていると考えるよりも、やっぱり生きたモノが「お、ひとつこの上を使って、ひと山作ってみようぜ!」と寄ってたかって宝の山に群がる盗賊どものように…と考えた方が健康的な気がするのだなあ…。

 なんだか、今回はかなり理屈っぽい愚痴のような感じになってしまった。複数の生き物が寄ってたかって、ついでに死体やらわけのわからんものも寄せ集まって、あたかも「一つの個体」みたいな形をとって群生している。それは複数の生き物の協調してつくりだしたものと見ることができるのかもしれないし、ただ単にそこで生きていくうえで当然そんな形をなしえているのかもしれないし、はたまた、たまたまそんな形になってしまっているだけのこと、なのかもしれない。これの答えは、無理やりわかったようになるんじゃなくて、おそらくきっと仏教の「悟り」あるいは「大悟」の境地が必要なのかも、と思っているのでした。まる。
 次回は?悟りきれない吾輩が、苦悩の果ての何かを書くのか、あるいは思いっきり話題転換して軽ーい話にもっていくか、どちらになるかは、本人すらわからないのでした、やっぱり。

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