▼ 2011/08/10(水) 南極の湖の物語 エピローグ1
みなさま、ご無沙汰しておりました。私たち第51次日本南極地域観測越冬隊員たちは、東日本大震災のニュースをはるか南極海の真っただ中で知り、南極以外で生じた自然がもたらした「想定を超えた」災害の過酷さに驚き、また、人間が自らの利便性を追求し英知を結集して作り上げた原子力発電所の事故発生に心底「大丈夫なのだろうか?」と心配したのでした。
直接・間接的に被災された方々、復旧に日々努力している方々、また、放射性物質漏えいという「悩ましい」問題を抱えてしまった事故現場周辺並びに我々日本国民は、この先、「いかに生き続けるのか?」その方策と方向を巡って、問題解決にともに歩まなきゃ、いけないと思いながら、私は日本での仕事・生活を始めています。
いやあ、それにしても「暑い!」
さすがに南極越冬帰りだと、この夏の暑さは身にこたえます。南極で仲間とともに湖の調査に山野を歩き回り、-20度前後の中でのどの渇きを潤すべく、厚く張りつめた湖氷の上に積もった雪にカルピスやシロップをかけてむさぼった事が、とても懐かしく思えます。
ところで、雪にシロップをかけて食べる、という、ちょっとワイルド?なことは、ここ、日本の雪国でもごく普通にできることではあります。ただし、南極でやるそれと、日本でやるそれとは「味わい」の点で多少異なるものです。
第一に、日本の雪でやると、どうしても「ほこりっぽさ」を感じてしまうことが多いことです。雪の結晶が純粋に水でできたものなら、そうした違いはないのでしょうけれど、残念ながら日本では、雪の結晶ができるときに空気中の塵やほこりが取り込まれたようなもの(ひどい時には黄砂みたいなものが含まれたものもありますねえ)になってしまいます。南極の周りには文明圏を持った大陸もなく、また、南極大陸自身もほとんどが雪と氷で覆われていますから、大気中の塵やほこりが極度に少なく、そうした清澄な空気の下で出来上がった雪ですから、雪自身にほこりっぽさを感じさせるものを含まないのです。
第二に雪の固さというか、雪の粒の詰まり方が絶妙だということ。南極は、別名、「風の大陸」でもあります。雪が穏やかに降り積もることもごくまれにありますが、ほとんどが台風並みの強さの風と共にブリザード状態で吹き付けます。この強い風が叩きつけるように雪を吹き固めますから、雪に足が埋まって歩きにくいような状態は、実はあんまりないのです。固くしまった雪が風で削られて湖の氷や大陸氷床上で「サスツルギ」という雪の造形をつくりだしたりもします。こうして吹き固められた雪は適度な粒子の粗さと空気の混合具合を示し、シロップをかけると絶妙のシャーベット状態をつくります。
いかがです?南極で「天然雪シャーベット」
味わってみませんか?
▼ 2011/01/31(月) 南極の湖の物語 その50
「越冬の終わりに」
本当にこのブログ、これで「いったん終了」なのです。あと数時間で昭和基地から砕氷船しらせへとうつり、いよいよ帰りに就くことのなってしまいました。一年と少しの間、もしかして目を通していただいた方、あるいはどこか途中で目に触れてしまい、「なんだよ、これ?」と違和感を感じてくれた方、もしくは当然のことながら目に触れることすらなく、ただ時間の流れの中で一緒の時を過ごしてしまった(過ごしたい過ごしたくないを問わず)人など、いろいろだとは思うのですけど、2009年12月から2011年1月末まで、地球の上に存在し、時を共有していたわけです。
ところで、時を共有するってどういうことなのでしょう。一緒の時を過ごすとか、たまたま同じ時間に存在しているとか。生きている限り、偶然ではありますが、それは自分の時代以前に祖先がつなげてくれた結果に相違ありませんから、そこには否定できない偶然でかたずけられない必然の事柄もあるのです。

ま、そんないかにも難しげなことは、ほおっておいてもいいのかもしれません。
人には、惹かれた、魅惑された、あるいは虜になってしまった、という感覚があります。それはきっと理屈では説明できないようなことの方が多いような気もしますけれど、とにかく、どうしようもない状態に陥っちゃうことが多々あるのは、かなりあることで、もしかして普通にいつでも起こることかもしれません。そのひとつの典型が、いわゆる恋愛で、恋をし、結婚する事態に進むというのが、ごく当たり前に皆さんが経験してしまうことかもしれません。それもさることながら、面白いことに取りつかれ、わき目を降る余裕(それが絶世の美女・美男であっても)すらなくなり(あるいはそのような面白さゆえの情動を正当化してまでも突き進んでしまうようになっちまって)、人は冒険や探検という、未知の、まだ知らぬ世界へと足を踏み入れちまうことも、在りなのかなと思うのです。人という特殊化した生き物のみならず、単細胞の生き物だって(だからこそ?)、いままで生きた実績のない世界へと可能性を追求するかのごとく、命がけで進出しようとする姿は、少なくとも南極の生き物をみている限り、ごく普通に見られることですから、「必然の努力」のように見えるのです。それが生き物の「本質」かと。
ともあれ、私はこの情報空間を通じ、私たち51次越冬隊が過ごした南極昭和基地周辺の模様を伝えてきました。なかには自分が実際に出会ったことも経験もしていないようなETとかウシの暴動を例に、おバカな話を展開させちまったこともあるかもしれませんが、そのへんは読者の責任において評価してくださいね。
私としては、南極に湖があるの?それはどんな世界なの?そんな純真な問いに答えることができるように書き連ねてきたことだけは、責任を持って言い切りたいことです。もちろん、不十分なことは承知。だって、まだ全てがわかったことではないのですから。
だから、この物語は、実はこの先も続くのです。語り部である私の自己満足と、もしかしてひとりでも聞きたい人が存在する限りにおいて。では、その時まで、さようなら!
▼ 2011/01/18(火) 南極の湖の物語 その49
「記録すること」

我が南極越冬も残すところ10日あまり。1月末までの昭和基地の維持管理任務を新しい越冬隊に引き継げば、基地を離れることになる。この任務が完了した後、2週間ほどは観測船しらせは昭和基地周辺での夏作業と観測のために、いましばらく昭和基地沖にいるのが常。この時間を利用して、私は露岩域にある湖沼へ出かけてこの夏にやるべき「最後の一仕事」に取り掛かる予定なのだ。その意味では私の南極での越冬隊長としての任務が1月に完了しても、まだしばらく観測者としての仕事は継続する。その辺の様子もこのブログを通じてお届けできればいいのだけれど、昭和基地を離れてしまうとインターネット環境が利用できなくなる。したがって、この後1度の更新で、一年以上にわたって掲載してきたこのコーナーを中断せざるを得ないのだ。このブログを通じて掲載してきたことは、何かの形で(少なくとも自分の記録として)残して公開しておきたいと思うのだけれど、何かいいアイディアをお持ちの方は、日本へ帰った折にご教示願えれば幸いだ。

(写真:かつて超高層観測でロケットを使用した時の施設、昭和基地ではその使用目的を終えた設備を整理する努力を行っているが、限られた夏の期間にできる作業に限界があり、まだ着手できていない建物もある。静寂な建物、だが、なんとなく当時の研究者と南極観測隊の情熱を感じさせる)
私のブログは時として作者の性格上、ゆがんだ色眼鏡的事柄満載だった気もする。けれど、そんな瑣末で取るに足らない事でも「自分の捉えた事実を記録する」ことは、ことのほか大事なことだ、と思えるシーンに直面することがこのところしばしばあった。
昭和基地には整理が行き届いたとは言えないながら、小規模な図書書架がある。そこにはわずかの一般書や教科書に加え、南極に関する本や資料(四半世紀以上前のものが大多数である)が並べられてある。悪天候で基地内に閉じ込められた折に、南極の自然に苦労しながら「何かを捉え記録しよう」とした先人達がしたため残した本やレポート、論文集を悪天候の合間に読みふける、そんな「贅沢」ができるのは越冬隊員の特権だ(もちろん近年のものは自分の興味あるものなら抱えて持ち込んだり、最新の論文などはインターネットのご時世であるから日本でいる時と同様にタイムラグなく入手もできたりするのだ、やろうと思えば)。おそらく日本に戻って社会生活を始めてしまうとそんな悠長とも受け取られてしまいそうな時の過ごし方は必死になって創り出さなきゃできないだろう。それらの、今はもう退官なされた偉大な先達が残してくれた記録などを読みすすめているうちに、「宝のありかを示す地図」のようなものを見つけた時のような、目が離せなくなってしまうものにしばしば遭遇するのだ。

(写真:昭和基地のあるオングル島の地上には大陸の露岩で見つけられるような規模のコケや藻の群生地がほとんどない。RT(レーダー・テレメトリー)棟のわき斜面はそんな限られたコケの群生地のひとつだ)
文明や科学の進歩、パソコンとインターネット社会の普及で飛び交う情報は、おそらくここ半世紀の間に桁違いの量になっている。情報というものが「すべて有用で必要なもの」と疑いを持たずに田舎で育った少年の私が、大学生時代に「パソコン普及」や「バブルの時代」はたまた「不確実の時代」に突如氾濫した情報過多の渦に直面して当惑、茫然自失となってしまったことを引き合いに出すまでもないだろう。本当に実のある情報は何なのか?その取捨選択能力が「うまい世渡り」の方策であると気づかされたのは、ごく最近のことのような気もする(まだ本当に分かっているわけじゃないと思うし、たぶんそうやろうと「真剣に」思わないだろうし、できるとも思えないのだなあ…)。情報選択努力をするのとは真逆に、「必要な情報であればそちらの方から近づいてくるでしょ、きっと」などと横柄な生き方をしてきた故、こんな「南極出稼ぎ人」となってしまったのだと思う。
情報過多の時代の前に記述された四半世紀以前の著書には、当時、情報そのものが少ないこともあるのだろうけれど、かけがえのない真実の記録が数多く残されている。すべて未知だった南極の自然を四半世紀、中には半世紀前に人々がどのように捉え、その時の南極の実情がどんなものであったのか、作者の息遣いとともに克明に描かれている、と思えるものに出会えるのだ。
そんな過去の記録と現在の昭和基地周辺で自分が目の当たりにしていることを比較してみて、「大いにちがうこと」あるいは「同じようなこと」から、自然の変化や規則性、その根底にある自然の摂理のような事柄に思いを巡らせることができる。たとえば、現代社会では「地球温暖化」現象に危機感を持って、北極海の氷が消失しつつあってシロクマが四苦八苦している報道が伝えられたり、氷河が縮小し、氷河湖が決壊したりしている事実が伝えられていたりする。この南極でもそういった地球温暖化の進行を(危機感をあおるような形で)感じることはあるのか?とマスコミ関係からこの南極にいる我々に取材質問されるのが、このところ頻繁にある。そのたびに南極観測を始めて半世紀が過ぎた現状で、成層圏中のオゾン量が春に激減しオゾンホールができるようになってしまったこと、二酸化炭素量など大気中の「温室効果ガス」は年々上昇していることなど、地道な観測で環境の変化を着実に記録、捉えてはいるのだが、「人が(ここで観測生活をして)温暖化を実感できるような現象は(残念ながら)ありません」などと答えると、非常に期待はずれであるかのような感想を持たれてしまうのだ。なんだか台風情報を波止場で実況するキャスターとTVの前のお茶の間の人との「温度差」のある受け取られ方に似ている。

(写真:昭和基地への輸送も様変わりしてきた。コンテナを使っての輸送もその一つ。こんな大型物資の輸送は海氷が安定する夜間に船から橇に積み替えられ基地へと運び込むのだ。そんな深夜、夕闇が訪れるようになった。間もなく夏も終わろうとしている)
湖の研究に携わって12年、その間、何か湖に変化を感じるところがあるのか?と考えてみる。例えばこの夏、氷床末端に融け水がたまって湖と化していたとか、5年ほど前にはとある氷河湖の氷の堤防が決壊した、などという、その側面だけみると「スワ、地球温暖化の影響か!」と捉えられかねない事実があったこともある。昭和基地のあるオングル島にも名称が定められた湖が数個あるのだけれど、5年前にはどれもすべて「干上がって」陸地化したこともある。これらなどは、近年の急速な地球温暖化の影響を示す例なのか?と言えば、NO。なぜなら過去の記録をひも解いてみると、そんな現象はこれまで幾度か生じたことがあるという記録を見つけることができるのだ。そんな温暖化が顕在化したような現象が生じた後に、また元のような状態へと戻っているのだろうから、変動していると言えるけれど、一方的に温暖化しているといいきれないということ。氷床末端では「毎年ではないけれど、氷河の融け水が末端にたまってその末端を横断できなくなってしまったこともある」とか、氷の堤防のダム湖は「25年前にも同じような規模の決壊が生じた」とかの記録を見つけることもできる。オングル島の湖に関しても、雪少ない年には融雪水で涵養されるような浅い湖沼は、夏に好天が続けば湖水が蒸発して干上がってしまうのは、当たり前の自然環境にあることが推察できたりもするのだ。これらからわかるように、『その時の事実』をしっかりと記録し残せば、それらは将来、自然の謎を紐解くカギとなる。記録を残したその当時にはその意味や価値はわからないようなものでも、実は何年か後に「卓見だった」などと受け取られることも多々あるのだ。物事の価値観なんて時代とともに移り変わるものだし、地球の環境だって時間とともに移り変わるもの。同じ変わるものなら、その時に直面している事実をきちんと記録し残すことこそ、未来へのプレゼントとなるはず。

(写真:オングル島にある「じゃがいも池」という名の湖。今年は水を湛えているのだが、5年前は干出していた)
ああ、なんだかいつになく生真面目な論調になっちまって、申し訳ない気もするのだけど、そろそろ終わりが見えてきた越冬隊長ゆえ、ということでご容赦願うのだ。

(写真:雪が融けて水分が急速に蒸発する夏には、オングル島の裸の地表に白く塩(えん)が析出しているところが目立つ。なかには析出した塩が黄色や緑色を呈するものもある(下)。融けた水は地表を流れ下るだけではなく、塩を析出させるほど急速に蒸発することを物語る現象だ)

湖を研究するひとりの自然科学者として、私が記録し残そうとしていることがある。それは12年前から試行錯誤を繰り返し、ようやく5年ほど前から軌道に乗せることができたこと、湖の水質環境の変動を連続記録することである。日本にある湖では人間生活と密着した水源としての大切さから、数多くの湖でそうした調査が実施されているのだけれど、南極の湖が人間活動に直接かかわる部分があまりにも小さい故、かなり酔狂な自然科学者以外には「南極の湖の水質環境の変化を、連続して捉えたことで、それがいったいなんだっていうのだ?」と言われかねないこと。まして、湖は一年のほとんど氷で閉ざされているから、連続記録をとること自体かなり難しく厄介なのだ。しかし、酔狂な人にはそれなりの「面白さ」を感じて取り組む理由があることも、少しはご理解願いたい。面白さを覚えた第一の理由、まずはその変化実態が「未知であった」ということ。それらに引き続いて、湖は生き物をはぐくむ小宇宙のひとつであり、それを育んだ環境がいかなるものなのかという興味が第二。南極の湖では氷河から解放された地球の歴史のごく最近にはじまったもので、その中に生き物社会が構築されていることは再三ブログの中で紹介してきた面白みのある現象だ。そんな湖と生き物社会の構築を「変化し続ける地球という星の上で生き続けてきた生き物のアナロジー」として「みたてる」事が出来、その先に「生き続ける」という生命現象の答えを見つけることができるのではないか、そんな思いがある。それらのためには現在の湖環境を後の科学の俎上にあげることのできるようなレベルで記録し続け、振り返って変化の特性を描けるようにできればいい。そう思いながら南極観測の中で自分のできることをやってみた。

(写真:夏の間、老朽化した設備を時代に即した物へ更新したり、新たな観測設備を導入したりする工事が毎年繰り返されている。基地観測を実現させるために必要な所作なのだけれど、そんな人間活動は南極の環境にどんな影響を与えるのだろうか。そんな影響を土壌細菌相の変化で評価しようとする取り組みも(写真のペイントマークは観測定点)、長期にわたって実施されている)
自然科学の中には大規模観測装置、中にはロケットや人工衛星という巨額の予算がその実現に必要なものもあるのだけれど、湖の観測は、同じ水の中を対象とする海洋研究よりもはるかに、「お手軽な」予算で実現できる。その意味で「見た目の華々しさ」はないし、着実なことから開始しようとするなら、ごく少人数でこじんまりとスタートさせることもできる。ただし、連綿とした観測データを得てその中から真理を見つけ出していくためには、喜び勇んで自然と対峙して取り組む情熱を持つ酔狂な弟子、若手を育てるという、お金以外の部分で努力が必要だ。でなければ一世一代で終わりということにもなりかねない。そのためにも、「面白さ」を記録し伝えなきゃ、いかんと思うのだ。未来の人の価値観のもとに使われる過去の記録し残し伝えた事実は、それが実施された時の予算の過多、人材投入規模とは、必ずしも比例した重要性をもつものと言い切れるものではないはずだ。実施した当時の価値観と(それが高いものほど予算が大きく人が群がりやすい故、成果は出やすいだろうが)、未来の価値観は同じである必然性は全くないからだ。華々しく展開させなきゃいけない科学もあるし、地道に途切れさせることなく続けるべき科学もあると思うのだ。
評価は後からついてくるものだと信じて。
▼ 2011/01/10(月) 南極の湖の物語 その48
「この夏」
天候不順の10月から12月初めの今年の気候は、ここ昭和基地周辺の大陸縁辺に散在する露岩地帯の湖沼にどんな影響を及ぼすのだろう?湖を研究する者にとって、一年で2カ月ほど湖面の氷が消失する(ことがほとんどであるが、まれに氷が張ったまま夏が過ぎることも経験しているのだ)この夏の季節は、「普通のやり方の湖沼観測」ができる稼ぎ時、貴重な季節なのだ。そんな夏の始まりの状況が「いつもと違う」ように推移したのなら、その影響がどのように波及するのか気になるところ。だが、よく考えてみると、夏に限らず、季節の推移はおそらく地球が出来上がった頃から毎年繰り返されているモノ。それが時間という逆転したり停止したりしない融通の利かない流れの中での営まれているのだから、決して全く同じように廻り繰り返されてきたわけではないはずだ。同じようではあっても、それは毎回、確実に異なるのが真理。今年の夏は地球の一生の中でこの一度しかない。そのはずなのだが、
「今年の夏は残暑が厳しかった」
「梅雨時に雨が少なくって、水不足だ」
とか、人はあたかも「毎年同じことが繰り返される」のが当然で、それを期待するかのように「平均的」捉え方をしてしまう。
南極で何か活動をしようと目論んだり南極に旅行に出かけたりすることは、ごく普通の社会生活をしている人にとっては「そう思うこと」自体、稀だろうし、そう思って努力をはじめてみても、「それを実現」できるかどうか、そんなに簡単なことではないと思う。だから、運よく(運悪く?)南極を訪れるチャンスを得た人にとって、そこで経験することは「初めてのことづくし」になるだろう。そんな、はじめて南極を探訪するような純真な気持ちになれば、現在経験している夏は唯一無二、「南極の夏とはそんなものナノダ」と素直に感じ受け止められよう。だが、半世紀以上続けてきた観測データをみたり、あるいは何の因果か「ここ十年ちょっと毎年のように」ここで夏を迎えるようになったちょっとスタンダードから外れてしまうようなすれっからしの南極観測隊員にありがちなのが、
「なんだか、いつもと違うなあ…」
などと、達観したような誤解をし(同じ夏などないのが「真理」なのに)、ブツクサと初めて南極を体験する人に語ってしまったりするものだ。これでは自然科学者として恥っさらしな「悟りきれていない」状態をさらけ出していることになるではないか。普通だとか常識だとかいう見方はきれいに捨て去って、「今、生じていること」を見つめてみる素直さが第一に大切で、積み重ねた経験由来の評価が先んじてはいけない、と思うのだ。
前置きはこのぐらいにしてっと。
南極はおよそ1400万平方キロメートルもある(日本の約37倍ともいわれている)大きな大陸だ。けれど、現在は97%以上が雪と氷で覆われており、かろうじて陸地が露出しているのは2%ちょっとしかないため、その露出している面積は日本の国土よりも小さいことになる。かつての氷期、数万〜10万年前には南極大陸はもっと寒く、現在露出している海岸部の露岩や沿岸の島々はもちろん、水深数百mの大陸棚までの沖合に至る範囲が厚い氷床ですっかりと覆われていたと言われている。その証拠が現在露出している沿岸の露岩や島々に氷河の爪痕として刻み残されていることは、以前紹介してもきたし、海底にも氷河が削り取った谷として残されている。また、現時点で陸地が露出している露岩域は地球の歴史からみればごく最近できた、そんな露岩域に湖がたくさん出来上がってきた、ということも以前のブログの中で語ってきた。
昭和基地は東経40°、南緯69°のリュツォホルム湾にある島嶼のひとつ、東オングル島にある。この湾の東側、「宗谷海岸」の大陸縁辺には連なるように露岩域がある。大きな南極大陸の沿岸をぐるっと見回してみても、この宗谷海岸ほど数多くの露岩が比較的狭い範囲に連なって存在している海岸は、実は、あんまりない。この地が南極大陸の中でもかなり珍しいエリアであることがわかるのだ(南極半島の西岸やエンダビーランド、北ビクトリアランドという場所の海岸にわずかにみられるぐらいなのだ)。沿岸にある露岩域のほかには、南極大陸で岩肌が露出している場所は大陸内部の氷床から顔を出した山脈(山岳)の山頂部(ヌナタクと呼ばれる)だけである。そんな数少ない沿岸の露岩域が連なるエリアに「昭和基地」があるのは、南極の湖を面白い対象として捉える輩にとって、今思うと、ものすごく幸運なことに巡り合った、と思える。
南極観測の当初、この昭和基地周辺は「到達不能」の地として、西欧諸国が、第二次世界大戦の敗戦から復興しようとしていた日本に観測の地として「残してくれた」厚い海氷に阻まれた僻地だったのだ。不屈の初世代観測隊が悪戦苦闘を繰り返し、いざ観測を始めてみると「オーロラ・オーバル」と呼ばれるオーロラ現象が観察しやすい極地を環状に取り囲むエリアに位置していたり、研究・観測対象としての露岩域に恵まれていたり。まさに「残りモノに福」があったのだから、南極観測を引き継いできた次世代は「災い転じて福となす」のが使命。こんな「地の利」を生かして賢さを世に示す絶好の機会としなきゃ、いけません。この先、「うまくできるかどうか」は、まさに自分たちの能力が問われるところで、この辺が少々、いや、かなり不安であるところが、私の至らぬところ。
現在、我々と観測・設営活動を交代をする観測隊が到着し、夏を迎えた露岩域をヘリコプターがひっきりなしに行きかうようになっている。そんな新たなチームにお願いして宗谷海岸に点在する露岩と湖周辺の航空写真を撮影してもらったのである。今回のブログに掲載した写真はこの年末、12月30日に撮影してもらったものである、よく晴れ渡った空に大陸氷床を遠景に赤茶けたむき出しの岩肌に囲まれた湖がきれいに映し出されていた。塩分濃度が極度に高くて「凍りにくくて溶けやすい」塩湖はすでに一片の氷も存在せずに湖水をあらわにしている(上の写真はラングホブデという名の露岩域の北にある「ざくろ池」の今夏の様子)。海と同じような塩分濃度の塩湖や淡水の湖沼は、この撮影時点ではようやく湖岸周辺で融け始めて湖水が顔を覗かしはじめたところのようである。氷河に接した「氷河前縁湖」は当然のようにしっかりした氷で覆われてはいるのだが、その湖に連なる下流側の湖の氷はすっかりと融け、さらにその流出口からは融け水があふれ出し、海へ滝となって流れ落ちている。この夏も確実に雪や氷、氷河が融け始めた事を物語っている(下の写真、ビボーグ・オーサネという露岩域の「からし池・はす池」)。
湖底に藻類やコケが寄り集まって種々の構造物を作り上げている現象は、これまで調べたところ、2m以上の水深のある淡水〜やや塩分を含むこれら露岩域に点在する湖に普遍的に観とめられたことである。こんな湖の湖底で太陽の光をとらえて生き続けるモノにとって、この夏以降、「いつまで湖面を氷が覆い、それがいつ消失し、そして再びいつ覆われだすのか?」ということは、どんな影響を与えるものなのだろう?初夏に白っぽくなってしまった湖面を覆う氷は湖の中に透過浸入する光のエネルギーを1/5以下にカットしてしまうフィルターと化す。そんなフィルターが消え去ってしまう(かもしれない)夏というのは、いったいどんな作用をもたらすのだろうか?
「ああ、この夏は日焼けしすぎなくって、いいわぁ!」
「なにー、そんなのんきなことを言って!今しっかりと稼いでおかなきゃ、冬を越せないじゃないのさ!」
「私、あなたたちが寝ている間に、もう稼いじゃったから心配ないわ」
「ソロモンの指環」を手に入れて、あるいは「ドリトル先生」のように修練を重ねて、湖の中に生きるモノらの話を聞いてやれたならば、そんな会話を聞き止めて間違いなく伝え紹介してやることができるのだが。
10月に2mほどの厚さの氷で覆われ、その下に「大輪の華」のように多量の藻類の塊が一斉に浮上していた湖の氷もまた、湖岸周辺から融け始めていた(下の写真の湖)。おそらく今頃はその一部は湖岸に漂いついて、訪れた人に不思議な感覚を覚えさせているに違いない。浮き上がったばかりの柔らかな塊は、きっと今頃は、過去、自分が何度か夏に訪れて見つけたように固く丸く形が整って、こんがり焼かれたような「コロッケ」のようなものとなって湖岸に浮かんでいるのが見つかっているはずだ。もちろんその陰には(いや、主流なのはむしろ)、おそらくしっかりと新たな湖底へ着陸(再沈降)?を果たし、新たな生命活動を果たすことができたモノもいると思うのだ。
「この夏」は一度きりしかない。できることならすぐにでも湖のある露岩へ行って調査したいのだけれど、越冬隊長としての最後の任務、この昭和基地とここでの活動の一切を新たなチームに確実に引き継ぐことを終えぬ以上は、基地を離れるわけにはいかないのだ。それまでは、出かけるチャンスのある隊員たちを「ソロモンの指環」を得しモノと見立てて、写真や試料をとってくることをお願いしたり、そして何よりいも「この夏」を露岩で過ごしてきた土産話を聞くことにしているのだ。
▼ 2011/01/02(日) 昭和基地の年末・年始
あけましておめでとうございます。
ここ、昭和基地でも年末年始、ゆく年を振り返り来る年を迎える行事を企画し、それらしさを演出し楽しみます。今年はこれらに加え、砕氷船しらせの接岸が、まさに年の瀬大晦日も終わろうとしている時刻となりましたから(12月31日23時20分接岸)、まさに「とどのつまり」で、年末の喧騒に華を添えました。「しらせ」が接岸すると、船に積み込まれた大量の物資が基地へと運び込まれますから、いよいよ夏の基地周辺の作業の山場を迎えることになるのです。元旦の休日をはさんで、まず最初に行われるのは、基地で使用する燃料の送油です。これに次いでしらせから橇に積み替えての大型物資海氷上輸送が始まります。これは安全を考慮して、海氷のコンディションが良い深夜の時間帯に実施されます。深夜といっても白夜の季節ですから、太陽は地平線に近い位置に昇っております。外は明るいのですが、それまで隊員は通常、日中に仕事をしており、その意味で生活リズムが突如「深夜勤務」となるわけですから、これに携わる隊員は大変です。こんな作業が開始されると元旦の正月気分は強制終了、すぐさま一年で最もあわただしい時を迎えることになるのです。

歳末。まずはしらせ接岸予定場所へ、目印となる風船を取り付けた横断幕を設置しておきました。氷を割り進みながらの航行ですから、海氷の状況によって所要時間が大幅に異なります。10kmを進むのに1日以上かかることもあるし、数時間ということもあるのです。一昨年は到着が未明の時刻帯となってしまい、目標物の設置が間に合わなかったということもありましたから、我々はかなり余裕を見積もって、おそらくどんなに早くてももう1日はかかるだろうな、という位置までしらせが接近した29日に設置したのでした。

基地では大掃除のあと、しまいこんでいた臼と杵を引っ張りだしてきて、「餅つき」を行いました。正月用の鏡餅、そしてお雑煮用などに新旧隊員の分あわせて一斗のもち米を蒸し、二升ずつ臼でつくこと5回。朝10時から初めて12時過ぎまでかかって完了させました。

正月らしさを味わおうと、この越冬期間中の各自の思いをつづった「書き初め」ならぬ「書きおさめ」を31日に企画しました。それから基地の食堂にドラム缶で作った「除夜の鐘」を設置、紅白の幕を張っていよいよとばかりお祝いムードを創りだします。今年は某テレビ局での南極からの中継もあり、大晦日の夜はこのためのリハーサルもあって、昭和時間の零時を過ぎるまで、実は行事の目白押しでもあったのですが(ちょっと裏事情の告白だね)。

そんな南極からのテレビ中継をおえて、ようやくおせち料理にありついて乾杯!となったのでした。待ちくたびれたような隊員の表情も…。なにせこの大晦日の夕食は「年越し蕎麦」だけでお酒も飲まずに深夜0時過ぎまで「おあずけ状態」で過ごしていたのですから、仕方ありません。

ちなみにおせち料理は、こんな感じ。これら食材は1年以上前に基地へ運び込んでいたものなのです。冷凍技術の進歩のおかげで、イセエビの刺身も堪能することができました。








